出 版 社: 国土社 著 者: 西村友里 発 行 年: 2019年07月 |
< コロッケ堂のひみつ 紹介と感想>
現時点(2020年)でのコロッケ児童文学の最新作です。動物が主人公のコロッケ童話や絵本作品は頻出しますが、リアリズム児童文学で、タイトルにコロッケが入った作品は久し振りの登場です。コロッケは児童文学において非常に使い勝手の良いアイテムで、この半世紀、数多の作品で重要な役割を果たしてきました。もっともグルメ漫画のように、コロッケ自体が問題を解決したり、気づきのキッカケになることは少なく、あくまでも小道具の位置づけですが。コロッケを食べること。中でも店先で出来立てのサクサクのコロッケをハフハフと食べるという快感。それを誰かと分かち合ったり、お店の人とコミュニーケートすることでもたらされるものが、物語の中で重要な役割を果たします。一方で、お店で買ってきた出来合いのコロッケがオカズになることが、家庭機能が危機的状況にある象徴に使われることもあります。8対2ぐらいで肯定的に使われているのが「出来合いのコロッケ」の立ち位置かと思います。また、現代において、コロッケが子どもたちの人気の食べものかと言われるとそうでもなく、食に関するアンケートを見ると、かつての人気上位にいたコロッケの位置に、フライドポテトが入っています。やはりコロッケの古くさい昭和感は隠せないわけですが、それ故に郷愁もあり、ご当地B級グルメにはコロッケが多かったり、台風の日にコロッケを食べる新風習が流行ったりと、まだまだコロッケは頑張れそうな気がします。で、現代におけるコロッケ児童文学は何を描きうるか、ということで、非常に興味を引かれていた作品です。子どもたちが思い悩む根深い心の問題を突く物語でもあり、コロッケという題材とのアンマッチ感が意外なハーモニーを生んだ異色作でした。
大学教員の両親が揃って研修のためヨーロッパに行くことになった夏休みの一ヶ月間。小学六年生の希美は、弟の潤と一緒に京都で和菓子屋を営んでいる祖母の元で暮らすことになりました。希美が嬉しかったのは、弟の潤の面倒を見ることを両親に頼まれたことです。自分が何も役に立たない子だと思っていた希美は、両親に頼みごとをされたことに歓びを感じます。ところが、祇園祭の宵山で賑わう通りで弟とはぐれてしまい、ちゃんと弟の面倒を見られない役に立たずの自分に、また自信を喪失するのです。そんな折、祖母の家の隣にある昔ながらの揚げ物を売る店「コロッケ堂」に、失踪中のアイドルの紫音が隠れ住んでいることを希美は知ります。紫音は、自分のことが不要な人間に思えてしまい、自信を失い、人前で歌うことができなくなっていました。この親戚の家に隠れて暮らしていたのも、人に知られないように心療内科医を受診するためだったのです。両親の期待に応えられない自分に落ち込んでいた希美は、自分よりも深く失望している紫音を励ますことで、生きる力を取り戻していきます。自己肯定感のない子どもたちが思い悩む姿や、根深い心の闇が描かれた作品です。果たして、ここでコロッケはどのような飛躍を物語にもたらしてくれるのでしょうか。
希美が自分の存在に自信が持てないのは、「役にたたないお姉ちゃんね」と母親に言われたことに傷ついたからです。親の何気ないの一言で子どもは動きを止められてしまうことがあります。繊細すぎると言えないこともないのですが、思春期マインドとしては、理解できるところです。認められたい。それはアイドルという、人から愛される存在である紫音でさえ陥っている妄執で、近年、取り沙汰されがちな承認願望の暗黒面です。希美の祖母は、こうした妄執に囚われて身動きがとれない子どもたちを『人はな、だれかのために生きているのとちがう。自分のために生きてるんや。期待されんでも、期待にこたえられんでも、そんなことかまへん。まず、自分が楽しまなあかん。』と一喝します。物語は、希美と紫音が路地の腰掛でコロッケ堂のおばさんからもらった大皿のコロッケを食べる場面で結ばれます。紫音が「自分が楽しむ」ために思い浮かべたのは、希美とこの場所でコロッケを一緒に食べることだった、という結末には、ちょっと驚かされるところもあります。これでいいのだ、ではあるのだけれど。自分をとりまく環境に追い込まれている子どもたちが、自ら歓びを見出し、楽しさを満喫しながら生きていこうとする能動的な姿勢は大切なものと思います。人の目ばかりを気にして承認されることを求めることも、旧弊した良識に従って自分を恥ずかしく思う必要はないのです。憂いを忘れて、生きることを楽しめばいいのです。コロッケが美味しければそれでいいのです。ただ、コロッケを食べているだけでいいのか、と思ってしまうのは、僕がまだコロッケを甘く見ている証拠です。もっとコロッケを信じないと。 “