出 版 社: あかね書房 著 者: 芝田勝茂 発 行 年: 2001年09月 |
< サラシナ 紹介と感想 >
目覚めれば、姫。竹姫こと更科内親王は今上天皇の第四子。父天皇の皇子であるものの外戚に藤原氏の血を持たないため、その後ろ盾は弱い。時代は八世紀前葉、天平年間。蘇我氏が滅ぼされた大化の改新から100年近くが経ち、皇族による統治は、実質的には、有力な一門である藤原氏との密接な関係によってなりたっていました。しかし、その体制もまた磐石ではありません。藤原四兄弟は、皇族の執政者である長屋王を排斥し、父、不比等の娘である光明子を皇后として擁立したものの、やがて疫病の流行で四人相次いで死亡。今度は、唐から帰還した吉備真備ら、留学生たちが重用され、それに異を唱えた、四兄弟の一人、宇合の息子、藤原広嗣が乱を起こすも誅せられます。執政の中核を担うキーパーソンはころころと変わり、権勢を巡っての政治的策謀が渦巻くキナ臭い時代。天皇は、何を求めてか、遷都を繰り返し、民衆の評判も芳しくない。こんな困難な時代に、姫として生まれたことは、果たして幸福なことであったのか。恋慕っていた兄を謀略で殺された竹姫は、兄の墳墓であらぬことを口走り、正気を失ってしまいます。再び、御所で目を覚ました時、彼女の記憶はおぼろげで、自分が誰なのかさえも、はっきりとは思い出せませんでした。封印されたもうひとつの心が疼く。目覚めた竹姫の心には、これまでの記憶の他に、遥か千年もの時代を越えた、もうひとつの魂が宿っていたのです。
実に面白い作品です。芝田勝茂さんにはドーム郡シリーズのような伝説的大作もありますが、本作は小品ながら、個人的にはぐっと胸に迫る、古代日本を舞台にしたファンタジーでした。刺激的な警句や言説もあり、琴線に触れるところが実に多かったのです。ふたつの魂を秘めた竹姫は、気持ちの命じるまま、窮屈で虚ろな皇族の生活を捨て出奔します。衛士である、身分の低い不破麻呂という男との出会いが、彼女のもうひとつの記憶を刺激して、自分自身に世界を取り戻す逃避行を選ばせたのです。この不破麻呂という男が、なかなか魅力的。徴用されて衛士となり、田舎から出てきた不破麻呂。腕が立ち、勇猛果敢だが、有力政治家の私兵となる誘いを潔しとせず、御所の下働きをさせられることになってしまった、そんな真っ直ぐな気性。ちょっと武骨ではあるが、胸に秘めている想いはなかなかロマンチック。御所に務める不破麻呂と、心に傷を負った竹姫のボーイ・ミーツ・ガールは必然のドラマ。さて、あいよる魂は、急展開して、御所を抜け出し、追っ手をかいくぐり、不破麻呂の故郷である、武蔵野の田舎の村を目指すことになります。不破麻呂の胸にいだかれて、このうえのない安心を得る竹姫は、彼の心の姿勢に、亡き兄の面影を見ます。現代で言えば、中学生ぐらいの年齢である竹姫が、心を震わせる姿には、ちょっとドキドキするような、得恋のおののきが一杯に詰まっています。二人が心を通わせていく場面が実に良いのです。御所の生活で得られなかった自由と友愛。竹姫を助けてくれた村人たちの言葉は、沢山の澱が積った竹姫の心を洗い清めていきます。目覚めていく心。しかし、この目覚めは、竹姫が封印していた、もうひとつの魂も、揺り起こししてしまうことになるのです。
夢の中で、ああ、これは夢なんだ、と気づく瞬間があります。それは、ほんの刹那のことで、目が覚めたから夢だと気づいたのか、それとも、夢だと気づいたから目が覚めてしまったのか、どちらとも判断しがたい混沌とした意識の瞬間です。水泡が、ぷつん、とはじけるように、はっと目が覚める。とても良い夢を見たような余韻だけが残るけれど、あれは一体、どんな夢だったのだろう。ほとんど思い出せないものです。邯鄲の夢とは、一国の栄枯盛衰もまた一瞬の夢のようにはかない、という故事ですが、それこそ遠大な物語を夢の中で体験していることはままあるかも知れません。目が覚めても、この夢だけは忘れたくない。そんな気持ちを、あの刹那に抱いているのかも知れない。でも、そんな気持ちすら忘れてしまう。大切な気持ちが、あの時、あったかも知れないという疼きもまた、いとおしいものかも知れません。自分は、あまり友だちもいない、いつも周囲のことを気にしている臆病な中学生の女の子で、物語の中の天女でもお姫様でもない。そんな読者に近い等身大の心境と、古代ロマンが輻輳しながら、純粋な心の物語を紡いでいきます。隔てられた二つの時間の中で、少女の心は甘やかな痛みを経験する。切なくも、浪漫あふれる見事な作品です。歴史の中に失われた事件や、人物たち。正式な史実にはない、過去の伝承と仄聞の中に、心を動かすものが密かに息づいている。清新な恋と友愛の物語です。