出 版 社: BL出版 著 者: ジョハナ・ハーウィッツ 翻 訳 者: 千葉茂樹 発 行 年: 2001年07月 |
< ジェリコの夏 紹介と感想>
ジェリコといえば、歌で知られる『ジェリコの戦い』が思い出されますが、この物語に登場するのは、古代オリエントの古い町ジェリコではなく、アメリカのバーモンド州にある田舎町ジェリコなので物語の上では無関係のはずです。とはいえ、主人公の十二歳の少女、ドーシーがユダヤ教徒であることが物語のキーになっているので、旧約聖書中のエピソードもまた、どこかつながるところがあるのではないかと勘繰っています。まあ、偶然でしょう。ユダヤ教徒のドーシーは夏休みの二週間、バーモント州の田舎町のキリスト教徒の家にホームステイに行き、戒律の関係でやや困惑します。ドーシーにとっては、それが宗教上の教義であるからということよりも、今は亡き両親が守っていたルールであり、両親との思い出であるということが大切だったのです。戒律によって縛られた生活は人間疎外か、信仰とともに生きることこそが人を幸福にするものなのか。そうした次元の問答をする物語ではなく、キリスト教徒の一家と一緒に過ごしていく中で、ドーシーに新たに大切にすべき関係が生まれたことが重要なのです。宗教上の教義の大義など難しいことは、この際、置いておいて、そんな幸福な時間が両親を亡くし、寂しい気持ちを抱えていた少女に訪れた物語を祝福したいのです。そこに至るまでは、ちょっとしたトラブルもあり、ドーシーも色々と頭を悩まされることもありました。ただ、それを凌駕するような体験がジェリコで過ごした毎日にはあったのです。十二歳の少女の輝ける夏の日々が物語に繋ぎ止められる、山村留学の成功例です。
都会に住む貧しい子どもたちを、街のほこりや、人ごみや、暑さから救い出し、健康的な田舎での体験を無料で提供してくれるフレッシュ・エア基金。姉のルーシーがこの基金に申し込んだことで、ニューヨークに暮らす十二歳の少女ドーシーは、この夏の二週間をバーモント州の田舎町、ジェリコで過ごすことになりました。両親が亡くなり、工場に勤めている十八歳の姉と二人で狭いアパートに暮らすドーシーとしては、色々と複雑な気持ちもありますし、どんなことがそこで待ちかまえているかも不安だでした。新しい服が買えないために古い服ばかりと、図書館で借りた『赤毛のアン』と『若草物語』を持って、汽車を乗り継いで、ドーシーがジェリコに着いたのは1910年8月1日のこと。ドーシーがホームステイすることになったのは、これまでにも都会の子どもを受け入れたことのあるミード家です。緑にあふれた広々とした景色が拡がり、牧場もあり、馬や羊や牛もいるジェリコ。ミード家は、そんな町にあるとても大きな家で、ドーシーはつい自分の住む狭いアパートと引き比べてしまいます。さて、ご馳走でもてなしてもらいながらも、ユダヤ教徒であるドーシーには、豚肉を食べられないことや、肉を食べる時に牛乳を飲まないなど禁じられていることがあります。そのことをキリスト教徒であるミード家の人たちに理解してもらうのが、ドーシーの最初の課題となるものの、なんとかクリア。畜産も行っているミード家で、牛の乳しぼりを手伝ったり、ニワトリ小屋で卵を集めたり、野菜を収穫したりと、都会っ子には珍しい田舎体験をするドーシー。そんな彼女が気にかかっているのが、この家の娘である二つ歳上のエマとうまく打ち解けられないことでした。それでも少しずつ、お互いの違っていることを確認しあい、一方で同じことがあるということを知り、親しくなっていきます。二人の仲をとりもったのは、ドーシーがニューヨークから持ってきた『赤毛のアン』です。ただ、その本がちょっとしたトラブルを引き起こし、またそれを越えていくことで、ドーシはミード家の人たちとこの美しくのどかなジェリコの町をもっと好きになっていきます。20世紀初頭を生きるごく普通の少女の夏の日々がここに輝きます。
この物語、初見のつもりだったのですが、以前にも読んでいたことを思い出しました(レビュー書いていないと忘れますね)。実在する「雪の写真家」ベントレーが登場するところで、記憶が戻りました(訳者の千葉茂樹さんはベントレーについて描かれた絵本も訳されていましたね)。ベントレーはジェリコに住み、やはり実在したフレッシュ・エア基金の活動にも力を入れていたと著者あとがきにあります。色々と物語の外にある時間的なつじつまが面白い作品で、姉のルーシーが務めている、やはり実在する工場が後に大火災を起こすので、その前に彼女をここから結婚により退職させておくなど、配慮がなされているそうです。ドーシーが読む『若草物語』は、この物語の時点で刊行から40年が経過した名著であり、一方で『赤毛のアン』は、2年前に刊行されたばかりの本で、それほど膾炙しているわけではないようです。リアルタイムの少女読者がどんなふうに『赤毛のアン』に熱狂したかは興味がありますね。また、この本がドーシーとエマのつながりを作るきっかけになったというあたりはファンとしては嬉しいところでしょう。ドーシーがジェリコの暮らしに触れていく中で、唯一、ニューヨークの方が良いところとして図書館の存在を思い起こしています。そして、この後、ニューヨークの五番街にできる大きな図書館がバーモント州産の大理石でできるという繋がりをドーシーはここで知ることにもなります。当時の風俗や文物が垣間見えるあたりも面白いところです。絵葉書や寄せ書き帳、ベントレーがドーシーにくれた雪の結晶の写真に書いてくれた言葉やレシピがインサートされているのも良いですね。信仰の違いや貧富の差など、人が関わりを持つ中で障害になることは、実際にありますが、それを乗り越えていけるのだという希望が灯される幸福な物語です。