出 版 社: 理論社 著 者: 大石真 発 行 年: 1964年 |
< チョコレート戦争 紹介と感想 >
すずらん通りにある町一番の高級洋菓子店、金泉堂。ここのお菓子の美味しさといったら、テストの成績が良かったら買ってあげるという親たちの言葉に、まんまと子どもたちが釣られてしまうほどでした。独特のフランス風洋菓子、ショートケーキ、シュー・アラ・クレーム、エクレール。ちょっとお値段ははるけれど、金泉堂は東京でもめったにお目にかかれないほどの店だと、町の人たちの自慢の種です。ある時、大きなチョコレートの城のディスプレイが飾られた金泉堂のショーウインドーのガラスが、前触れもなく割れてしまうという事件が起きます。運が悪いことに、たまたまその時、ショーウインドーの前でチョコレートの城に見とれていたのが小学生の明と光一。しかも、明の手には空気銃の弾を発射できる、おもちゃピストルが握られている、となると状況証拠はバッチリ。二人は、さっそく金泉堂の店員に捕まえられて締め上げられます。ケーキが買えないから、腹立ちまぎれにガラスを割ったんだろうなんて、とんだ言いがかりをつけられて犯人扱いされてしまう二人。自分たちはやっていないと無実を訴えても、信じてもらえません。頭ごなしに怒られて、あげくに先生が呼ばれて、ようやく解放してもらえましたが、なんとも悔しさはつのるばかり。なんとかして、この名誉を回復しなければと二人は誓うのですが、いったいどうやって、あの頑固な大人たちを見返したらいいのか。時代を越えた代表的児童文学である本作。抜群のユーモアと物語の構成の妙。何度読んでも面白い作品です。
光一の復讐。やられたらやりかえす。あっといわせるような方法で、金泉堂の鼻をあかすことはできないだろうか。そこで思いついたのが、ショーウインドーに飾られた、あの巨大なチョコレートの城を盗み出すという計画です。15キロはあるだろう城を運び出すには四人は必要だと考えた光一は、弱虫の明は誘わず、残り三人の仲間を同級生から募り、周到に準備を重ねていきます。ところが、金泉堂もすばやく情報をキャッチして、抜かりなく防衛計画を立てていました。まんまと金泉堂の罠にはまってしまう光一たち。やはり、一枚上手をいくのは大人の策略です。一方、気弱な明は、光一の過激な復讐を尻目に、まったく別の方法で、金泉堂から一本とることになります。それは、記事を書いて小学生新聞に載せることでした。小学生新聞のネットワークは、ついに市の小学生を動員して、金泉堂の不買運動を誘発したのです。金泉堂があやまるまで、もうお菓子は食べない。そう誓った子どもたちは、もはや、親の甘言にのせられて、お菓子につられて勉強することもありません。やがて、この騒動が、最初にショーウインドーのガラスを割ってしまった真犯人の耳にも届き、子どもたちの勝利は決定的なものになります。
こうして、金泉堂は敗北を認めざるをえなくなり、小学生たちと和解するわけですが、この金泉堂、なかなか骨のある洋菓子店なのです。その美味しさにはいつわりがなく、厳しく味を追求する姿勢は本物です。物語中に語られる、意外に苦労人であった金泉堂の主人の立志伝であるサイドストーリーなども面白く、金泉堂が単なる悪役ではないことが物語に膨らみを与えています。荒唐無稽なようで、生活のリアリズムに立脚したディテールが、現実にありうる冒険物語として、余計、ワクワクさせられるところがあったのかも知れません。貧乏一辺倒から一歩進んで、少し、豊かな生活の香りを楽しめる時代になっているようです。それは高級洋菓子であり、チョコレートの持つ贅沢感。そうしたものに対する憧れが、物語の前提に見えます。空腹の時代が過ぎ、訪れた贅沢との蜜月。例えば、現代の子どもが「チョコレート工場」に招待されても、その嬉しさはかつての子どもたちほどではないでしょう。児童文学は時代に応じた子どもたちの憧れを捉えます。現代ではSNSで脚光を浴びることや、カードバトルのレアカードをゲットすることなのかも知れません。ところで、この物語は、プロローグに作者が登場して語りはじめる入れ子構造になっています。不思議な手記を手にいれたり、こっそりと打ち明けられた秘密を、作者が代わって物語にするなどの導入パターンは、最近は、あまり目にしないような気がします。ケストナーの『飛ぶ教室』のように、作者が、これから物語を書きます、と宣言する効用は何か。「あらかじめここに大人が介在する」という宣言も、児童文学については障害ではなく、より世界観を広げるものなのかと思います。