出 版 社: 佑学社 著 者: マリアン・D・バウワー 翻 訳 者: 久米穣 発 行 年: 1989年10月 |
< トニーが消えた日 紹介と感想 >
無茶ばかりする友人に呆れつつも、どこか離れがたい魅力を感じていて、つい付き合ってしまう。ヤツに比べると他の友人は退屈に思える。ジョエルにとって、幼なじみのトニーはそんな存在でした。とはいえ、今回トニーが、イリノイ州立公園のスターブド・ロックのがけをよじ登ると言い出したのには、ジョエルもさすがに反対します。去年、あのがけを登ろうとして、死んだ人間もいたのです。こわいならお前は登らなくていいんだぜ、というのは、十二歳の少年には引くに引けなくなる殺し文句です。臆病者にはなりたくない、というのが、少年たちの心のルール。ジョエルは父親に、ただ公園まで二人で自転車で行きたいと話し、自分の「名誉にかけて」公園以外の場所にはいかないと堅く約束して出かけます。ところが、気ままなトニーは道の途中で、がけを登ることよりもすごいことを考えたと言い出します。橋の下を流れる川、バーミリオンを泳ごうと言うトニーに、遊泳禁止で危険だとジョエルは説得しようとしますが、トニーは聞く耳を持ちません。しまいには、どっちが臆病者かをかけて、三十メートルも沖合の砂州まで競泳することになってしまうのです。さて、この少年同士の意地の張り合いが、結果としてタイトル通りの『トニーが消えた日』を招くことになります。砂洲に先にたどり着いたジョエルは、トニーを探すものの、その姿を見つけだせません。募りはじめる焦燥感。トニーの身の安全を一心に案ずるだけではない、複雑な葛藤も生じます。少年の心が追い詰められていく姿が、魅せてくれるドラマになるというニューベリー賞受賞作。実に読ませる作品です。
やってしまった失敗を、どう取り繕うか。そこに人間性が問われます。道徳的正解と文学的展開は別次元にあり、児童文学として何が描き出されるのかは興味深いところです。ジョエルはトニーを懸命に探します。脱ぎ散らかされた服はそのままで、先に川からトニーがあがったという可能性はない。川に潜り、水底に見えたあの流されていく人影はトニーだったのかもしれない。子ども一人で対応できない状況で、追い詰められたジョエルは決断します。自分はこの事件に関わっていなかったというフリをしよう。自分とトニーは公園に向かう途中で別れたことにするのだ。この試みは上手くいきます。やがて、トニーの両親が戻ってこないトニーのことを心配しはじめます。警察も動きはじめている。そうした中で、次第にふくれていくのが、ジョエルの中の自責の念です。どうしてこんなことになってしまったのかとジョエルは考えます。元はといえば、トニーと遠く離れた公園に二人で行くことを許した自分の父親がいけないのではないか。責任の所在をどこに求めるべきか。ジョエルには他人のせいにしがちな性向があり、ここでその性格が悪い方向で発揮されていきます。最終的にジョエルは、自分の「名誉にかけて」正しい行動を起こしますが、それでもトニーは救われるわけではなく、ジョエルの苦悶も続きます。そして、物語はそのまま終わりを迎えるという、なんとも呆然とさせられる作品です。さて、どう解釈したらいいのか。ここからが読書の醍醐味です。
ここで終わっていいのか、という読者の疑問を、この作品では、翻訳者があとがきで引き受けてくれます。翻訳者もまた出版社から原書を渡されて読んで驚き、あまりの内容に子ども向けの本がこれでいいのかと疑問に思ったといいます。何分にも、ジョエルどころか、迂闊に死んでしまったトニーさえもが責められて終わるというやるせなさ。訳し終えた後、翻訳者は、物語の舞台になった現地に旅だちます(実にドラマティックな展開のあとがきでした)。そこで、大自然の姿を目の当たりにして、物語が意図していたものを汲み取ります。なんら準備もなく、迂闊に危険な川に入った少年たちが、そもそも間違っていたのだと。いのちを簡単に投げ打ってしまったトニーのおろかさは責められても当然なのだという、真っ当な指摘です。極端な描き方ではあるものの、こうした形で、いのちの大切さを説く物語であったのだという解釈は、なるほどと思うところです。少年たちの価値観では、臆病であることは恥じるべきことです。恐れ知らずであることの方がクール。しかし、恐れを知ることが、結果的に、いのちを守ることにもなる。名誉をかけて守るべきプライドと、捨ててもいいプライドがある。その選択を誤らないことが重要だということなのでしょう。とはいえ、です。物語の中の人たちが救われないことが、とても苦しく感じられます。やはり、登場人物の幸せを願うのが、読者というものなのだと、そんなことを実感してしまう、物語なのでした。