朔と新

出 版 社: 講談社

著     者: いとうみく

発 行 年: 2020年02月

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憎まれ口も愛情の裏返し、であったりと、敵意と好意が判然としていないのは、キツイことを言う当人自身もかも知れません。優しい言葉の裏に棘を忍ばせていたり、我知らず真綿で首を絞めていることもあり、自分の悪気については、どこまで自覚があるものなのかと思うのです。人を気遣う言葉で、人を追い込んでいることもよくあります。人への愛憎はないまぜに表現されて、その真意は当人にもよくわからないのではないのかと思っています。僕はアンビバレントな心性に強く惹かれてしまうところがあって、矛盾したまま止揚している心模様にこそ文学を感じています(なので学生の時に弁証法という概念を知った時、陶然としました)。本書はたしかに「気づかいあう家族」の物語ではあるのですが、その心の真相があらわになっていく過程で、麗しい家族愛を越えた極限に到達するのがポイントです。剥き出しの本心が口に出されますが、あるいはそれも究極の気遣いなのかも知れず、当人自身もまた、自分の本意がよくわからないのではないかと邪推しています。そんなアンビバレントさ加減が人間の実存だと思うのですが、まあ、これは余談です。ともかく、この作品のアウトラインから「ブラインドマラソンに挑み、互いを支えあう兄弟の美談」的な先入観を抱かれるかも知れませんが、そんなイージーな物語ではないので要注意だということです。人はどう運命と和解していくものだろうかと、その遠大な道のりを思い途方に暮れます。野間児童文芸賞も受賞した、高く評価された作品です。

三歳歳上の兄、朔(さく)が交通事故で大怪我を負い失明したことに、弟の新(あき)は責任を感じていました。年末、両親とともに帰省するはずの日程を、自分の都合でずらしたことが、兄と二人だけで乗ったバスの事故を引き起こしたわけでもないのに、それでも新は大きな呵責に苛まれていたのです。事故で頭を打ち、脳を損傷した朔が視力を失ったという事実は、家族に衝撃を与えました。嘆き悲しむ両親。もとより反りが合わない母親から責められ、中学二年生だった新の心もまた拗れていきます。一方で兄の朔は、家族の励ましや支えも振り切り、寄宿制の盲学校に入ると自分で決めてします。哀しみに沈む姿をほとんど見せようとしない毅然とした姿に、新は兄の強さを見ます。兄が盲学校に通っている一年半の間に、新は高校に進学しました。中学生の頃、有望な陸上選手として注目を浴びていたのに、事故以降、部活を辞めてしまったのは、兄と同じように大切なものを自分もまた失わなければならないという、頑なな贖罪の思いだったのです。高校に入っても陸上競技に距離を置く新は、表向きはそんな気持ちをおくびにも出さず、ただ飽きただけだと嘯きます。盲学校の寄宿舎から戻った朔は、そんな弟に、ブラインドマラソンの伴走者になることを依頼します。陸上などをやるタイプではなかった兄が言い出したことを訝しみながら、一本のロープで結ばれたパートナーとして、一緒に走る伴走者の難しさを新は体感していきます。もう一度、自分を走らせようという兄の気持ちを感じとりながら、朔の不屈の精神に動かされた新もまた、複雑な気持ちを抱きながらも、経験者としてアドバイスし、力を合わせていくことになるのです。

自分の迂闊さや短慮が引き起こした失敗には、後悔してもしきれない、やりきれなさがあります。新は自分の罪の呵責に耐えかねて、大切な陸上をあえて失うことを選びますが、これは誰も幸福にしない贖罪です。とはいえ、ここで建設的な選択肢を選ぶことは、まあ、できないものでしょう。周囲もまたそんな新の気持ちに気づいています。とはいえ、新が再び走り始めることが、朔を力づけることになる、というのは、実に絵に描いたような、おためごかしです。物語はやがて「強い人」と思われていた、朔の苦衷と苦闘のプロセスを明らかにしていきます。視力を永遠に失ったことをどう受け入れたら、納得できるのか。そんなことに正解はないし、きれいごとで済まないのです。この物語、かなり攻めていきます。神さまではない人間には、どうしても受け入れられないものがあります。それでも、見えないものの先に見えるものがある、と開眼するのは、全てをあけすけに語り、きれいごとの向こうにあるものの首根っこを掴んでいける力があるからでしょう。このゼロ地点を見せてくれる物語です。とりすましたまま、やり過ごさず、慟哭すること。自分自身の心の裡だって、はっきりとわからないのが人間です。愛も憎しみもごちゃ混ぜで混乱しているのが人間らしさなのです。精一杯生きなければと思いますね。心の虚飾もまた人間らしさなのですけれど。