出 版 社: 明石書店 著 者: キャスリン・アースキン 翻 訳 者: ニキリンコ 発 行 年: 2013年01月 |
< モッキンバード 紹介と感想>
小さな町で起こった大きな事件。バージニア・デア中等学校で起きた銃乱射事件は、生徒、教員を含む三名の犠牲者を出し、犯人であった生徒たちも一名以外全員射殺されるという痛ましい惨事となりました。町全体に大きな傷あとを残した大事件。とりわけ犠牲者の家族に与えた心の痛手は大きいものでした。小学生のケイトリンも自分の良き理解者であった兄をこの事件で失っていました。二年前にママをガンで亡くしていたため、これでパパと二人だけの家族。パパの失意は大きく、「わが家がばらばらになった日」からずっと気持ちを塞いでいます。ケイトリンもまた、みんなの同情を一身に集めていましたが、その感覚が多少、他の人と違っているため、「適切な心の対応」ができていないように思われていました。ケイトリンはアスペルガー症候群です。絵の才能があり、識字能力も普通の子どもより数段優れているため、難しい本を読むこともできる一方で、対人的な共感能力が弱く、言葉や表情のニュアンスをつかんで人の気持ちを察することができません。変わったことを言い出したり、不思議なリアクションをとったりする「変な子」というのが、ケイトリンの社会的な立ち位置です。実際、ケイトリンの心は兄の理不尽な死をどのように捉えていたのか。彼女の「変なところ」が目につく一方、時に彼女こそが真理を見出しているのではないかと考えさせられることもあります。ケイトリンの、はじける主観で語られる物語だからこそ見えてくるもの。ケイトリンの透徹した世界観が見せる、新しい可能性がここにあります。
他人の立場からものを見ることができない。そんな共感能力の不足を補うために、ケイトリンには「理解の課題」が課されています。「顔をちゃんと見ましょう」「状況に合わせましょう」を、いつも意識しながら、彼女は社会とわたりあっています。「ありのまま」のケイトリンではトラブルが生じてしまう。彼女の感性や理解の仕方は「普通」の人とは違います。かつては問題児や個性的すぎるなどと言われた感性のきわだった子どもが、現代では発達障がいと診断されることがあります。のび太とジャイアンどころか、赤毛のアンや地下鉄のザジも、今では、なんらかの症例と重ねあわせられるのかも知れません。正常と異常の境界線は曖昧で、みんな同じスペクトルの線上に並んでいるのに、ある点をちょっとでも超えると「普通」とみなされなくなってしまう。それでも、トレーニングを受ければ、問題を事前に回避することができます。そうした診断が早期にくだされ、ケイトリンは低学年のうちから学校で特別な指導を受けていました。けれど、この作品は、ケイトリンが「普通」で「まとも」な態度を学び、兄の死に「正しく」反応できるようになるプロセスを描く物語ではありません。彼女の個性と躍動する心を生き生きと描きながら、「彼女なり」に積極的に周囲と関係を結び、喪失感を越えていく姿を見せてくれるものです。障がいの有無は関係なく、人間は誰もが特別な存在である、という前提のもと、その特別の度合がそれぞれ違うことを意識することで生まれる新しい関係性について、大きな可能性を感じさせてくれる作品です。
とりかえしのつかないものをとりかえす方法には正解がなくて、それはもう、考え方次第としか言いようがないなと思う時があります。子どもが肉親の死をどのように受け入れるかは、やはり難しいテーマです。児童文学には、喪失から回復する心の物語が数多くあります。それぞれの物語は、次のターンにゆっくりと進んでいくゆるやかな時間の流れを描き、子どもたちの心が深化する様子を鮮やかに見せてくれます。ところで、この『モッキンバード』の物語の中でケイトリンは、兄の心臓を銃弾で撃ち抜いた犯人たちに対して、怒りの感情を持っていません。彼女の思考ロジックは、感情的な方向には向かわないのです(これはアスペルガー症候群の特質なのか、彼女の個性なのかはわかりません)。失意とともにやり場のない怒りをもてあますのが「一般的な反応」であるのかも知れません。悲しみや怒りなどの負の感情からは、できれば距離を置きたいものであって、ケイリトリンの心持ちに感じ入るところもありました。私事ですが、父が亡くなって五年以上が経過しました。喪失の痛みもまた時間とともに寛解していくことを実感しています。医療過誤の有無を争うことになり、理不尽に対する憤りを継続する必要もあったのですが、とはいえ、普段は普通の会社員ですし、憤ってばかりいられないのが日常です。怒りを糧にして日々を生きるということは難しいし、できればやりたいことではないですね(やりますけど)。