レイミー・ナイチンゲール

RAYMIE NIGHTINGALE.

出 版 社: 岩波書店

著     者: ケイト・ディカミロ

翻 訳 者: 長友恵子

発 行 年: 2017年05月

レイミー・ナイチンゲール  紹介と感想>

家の中にゴタゴタした問題があったとしても、社会生活の中で、それを表明すべきではないということは、子どもなりにわかっているものでしょう。家が普通の状態ではない、ということは恥ずかしいし、可哀相だと同情されることも避けたいものです。それでも誰かに打ち明けたくなったりするし、そのやるせ無い気持ちの落とし所を探しているものかも知れません。まあ、黙って我慢しているのがスタンダードで、頑張って十代を乗り切って、大人になろうとするものですが、ちょっとオカシナ方向に個性が発現してしまうこともありがちです。気持ちがあふれてしまうのですね。メンタルバランスが崩れているので、ケアが必要なのですが、家族は家族で大変なので、そんな余裕はありません。さまよえる子どもは、大抵、突飛な行動に出ます。本書の主人公のレイミーの場合、それは「美少女コンテスト」に出場することでした。しかも優勝して、自分が新聞の紙面を飾る、というところまでが目的です。いえ、真の目的は、別にあります。美少女コンテストへの出場も、その優勝さえも手段なのです。出場のためには、舞台で披露する特技を磨かなければならず、バトントワリング教室にも通うし、エントリーシートを埋めるために、良い行いを実践しておかなくてはなりません。そこでお年寄りに読み聞かせを行おうとナイチンゲールの伝記を持って老人ホームにレイミーは向かうという展開ですから、一体、この物語はどこへ向かうのかと目が離せません。えらい遠回りのように見えるのですが、レイミーの中で辻褄は合っています。ただそれを人に説明するのは難しい。その長い事情を聞かされた方としても、この子をどう励ましたらいいのやら、と思うでしょう。子どもが、自分のできる最大限のことをやろうとして迷走する姿が切なく、それでも、どこかおかしい。レイミーの行動や言動がユーモラスであり、楽しい物語となっているのが不思議です。ペーソスとユーモアが入り混じった傑作。ニューベリー賞を受賞した作者の名作『きいてほしいの、わたしのこと』と同じく、十歳の女の子を主人公にした、なんとも胸に痛い物語です。あのグッとくる感覚がここにもあります。自分も十歳の時、そんな感じで大迷走していたので、とても沁みました。

1975年の夏。保険代理店を営むレイミーの父親は、歯科衛生士の女の人と駆け落ちして、家を出て行ってしまいました。ショックを受け、失望していたのも束の間、その二日後、レイミーは早速、行動を開始します。父親を取り戻すべくバトントワリング教室に通い始めていたのです。何故、バトンかと言えば、美少女コンテストで披露する特技が必要だったからです。美少女コンテストに優勝して新聞紙面を飾り、父親に気づいてもらえれば、家に帰ってきてもらえるはず。そう考えたのです。練習を始めたレイミーは、バトン教室で二人の女の子と親しくなります。ピンクのワンピースを着た、芸能一家の出身だというルイジアナと、警察官の娘だという怖いもの知らずのベバリー。レイミーと同じく中央フロリダ・タイヤ社の美少女コンテストに参加して賞金の1975ドルを手にしたいというルイジアナと、コンテストをぶっつぶしたいという物騒な怒れるベバリー。二人にもそれぞれ複雑な家庭の事情があることをレイミーは後に知ります。芸能一家出身のルイジアナに勝てるのかと思いつつも、コンテストにエントリーすることにしたレイミーは、応募用紙にあった、あなたがしたことのある良い行いを書きなさいという設問に後付けで答えるために、ゴールデン・グレン老人ホームに行き、お年寄りに本を読んであげることにします。ところが、図書館で借りたナイチンゲールの伝記を持って、いざ老人ホームに向かうものの思うようにはいかず、トラブルに巻き込まれてしまいます。そこで力を借りたのが、ベバリーとルイジアナの二人です。素気ないベバリーと、三人は三勇士なんだから助け合わなくてはと言い出すルイジアナ。彼女自身にもまた助けて欲しいことがありました。両親が亡くなり、飼えなくなった猫を「なかよし動物センター」に預けたものの、なんとか取り戻したいのだとルイジアナは言います。猫はすでに殺処分されていることをほのめかすベバリーの方が、残念ながら真実に近いのですが、センターの実像を知った三人は、動物たちを助け出すため、夜に紛れてセンターに忍び込もうとします。美少女コンテストの出場を目指していたはずが、当初の目的から次第に脱線していく物語は、三人がお互いのことを思いやり、その心の痛みを励ましあえる関係へと、その絆を結んでいきます。なかなか危うい冒険に三人は乗り出すことになりますが、それなりに上手いく結末に安心させられます。そうでなくては。

レイミーの十歳なりの世界観が深まっていく感覚が面白いのです。父親が愛人を作って、突然出ていくなんて不合理な目に合ったわけですから、ここには不幸な運命を感じてしまうこともあるでしょう。メンタルが敏感になっているせいなのか、何気ないことにふいに真実が見えそうになる、というのもおかしな衝動です。急に期待感がふくらんで、いろいろなことを理解できそうな気分になる。かと思えば、急に肝を冷やすような目にもあって、その魂は浮き沈みを続けます。この振幅が妙に面白いのです(『ふたつめのほんと』『ティナの明日』などに通じるところがありますね)。さらに、レイミーに魂の話を聞かせてくれていた、お向かいに住むボーカウスキのおばあさんが突然に亡くなってしまい、レイミーは悲しみに沈みながら、その魂の行方が気になります。レイミーは、全てのものに宿る魂のことを考えだして恐ろしくなったりするのですが、彼女を現実に引き戻し、落ち着かせてくれるのは、ルイジアナやベバリーの存在です。この世界は信じられないし、説明もできないものです。レイミーに兆す思いは「どうしてこの世界は存在しているの?」という根元的な問いかけです。ドタバタとしたエピソードと並走してレイミーの心の中に渦巻くこの混沌。両親が事故でしまったルイジアナも、お父さんと会うことができないベバリーも、不合理な世の中の仕組みに翻弄されています。「三勇士」は仲間として手をとりあい、自分たちがここにいることを確かめあいます。この物語、リアルな通常の出来事と、形而上の問題が並走し、人間の実存について深く子どもたちが考察することがスパイスになっています。いや、それこそが本題であって、目の前で起きていることなど、もしかすると大事ではないのではないかという気持ちも抱かされます。人生は何が起きるかわかりません。幼くして不幸な目に遭うこともあることです。それでも、友だちがいるおかげでこの世界は美しい。そんなありていで陳腐になりがちな言葉を、深い真理として響かせてしまう、この物語の並々ならぬ魂に感じ入ること必至です。