ふたつめのほんと

The facts and fictions of minna pratt.

出 版 社: 福武書店

著     者: パトリシア・マクラクラン

翻 訳 者: 夏目道子

発 行 年: 1992年03月


ふたつめのほんと  紹介と感想 >
鮮度の高い「気持ち」を、文章に写すこと。そのためには、深く感じること。感受性を鋭くすることが、表現作法なのではないかと思います。こうして本の感想を書いていても、まれに、言語化不能の感想を抱かされるような作品に出会うこともありますし、疲れて感受性が鈍くなってしまうと、言葉を失ってしまいますが、おおよそ「天啓」に頼らなくても、ある程度なら文章は書けるようです。しかしながら、神のごとき閃きを文章に写すことができたのなら、どんなにいいだろうと思うこともあります。ひらめくか、ひらめかないか。「神意を得たり」と、思えれば良いものの、いつまで待っても、天下らないことの方が多いものですね。いや、神意を得たことなどあったのか。水ごりでもとらないと駄目かも知れません。さて、今回は「言霊」は降りてくるのか。いつも期待して待っているのですが、果たして。この物語にも、そんな気持ちを抱えた女の子が登場します。音楽教室に通いチェロを練習している、十一歳の女の子、メリンダ(ミナー)・プロットは考えています。自分には、いつ「ビブラート」が「降りてくる」のだろうかと。『音を上下にわずかにふるわせて、音に暖かさと美しさを加える技法』という演奏テクニック、そのコツが掴める瞬間を、天から啓示がくるように待ちわびています。新しく音楽教室に入ったばかりのビオラのルーカスも、辻音楽士のウィリーさんでさえも、ビブラートができるのに、自分には、何故、できないのだろう。『そのうちにわかるよ。きっとわかる』、先生は言うけれど、私の頭の上にも光がさすことがあるのかなあ。ビブラートのできない私に・・・。

十一歳のミナーのもの思いは、いまにもあふれだそうとしています。目に入る色々なものに、話しかけてみる。こんにちは、世界。嬉しくなって、微笑みかけたり、がっくりしたり、ドキドキしたり。空想をたくましくしながら、色々な気持ちに心を震わせています。胸の中で、渦巻く言葉、言葉。はっきりとしない、良くわからない断想。もやもやとした気持ちもあります。ミナーのお母さんは小説家。普通の子のお母さんとは、かなり違っています。料理もそうじもしない。お母さんが好きなのは書くことだけ。そして、ミナーの目をじっとのぞきこんで、『愛のことを考えたことある?』なんて聞いたりする。『美の本質はなんなの。真実の本質は?』、そんなことを聞かれても。どうして、普通の子のお母さんのように、学校での出来事を聞いてくれないのだろう。ファンレターには、あんなに一所懸命に答えているのに・・・。どうも、家も音楽も、うまくいかない。それでも毎日は続いていく。ミナーも、家族や友だちと触れ合いながら、さまざまなことを、思い、感じていきます。わたしの本当の気持ちに、お母さんは気づいているのかしら。本当に大切なことは、はっきりと言葉にされないけれど、それでも、どこかにはある。あるものなんだな。ミナーが気づくには、もう少し時間がかかるかも知れない。「ビブラート」が降りてくるまでの待機時間。ある日、突然、できるようになる、その時はいつくるのだろう。音楽コンクールに向けて、モーツァルトの四重奏を練習しながら、ミナーの日々は進んでいきます。

どんな日も、さして重要ではない一日。でも、その時間が、成長を養っているのです。そのあふれる思いの丈は、きれぎれの言葉となり、つなぎとめられ、作品として綴られていきます。太宰治の『女生徒』のような、なにもない一日のもの思いが、一篇の文芸作品になるように。とりたててストーリーのないお話なのですが、なんとも透明感があって、清新な印象を与えられる作品です。はっきりと説明されない感情は、言葉で説明しないまま、関係性を描くことによって浮かび上がらせられます。情景と心象が溶け合い、感じさせる、豊かな文章が紡がれていきます。実に魅力的な空気が、ここには満ちているのです。「ビブラートができるようになるまでの待機時間」。この象徴性が感じさせてくれるもの。是非、この十一歳のミナーのいる場所で、深呼吸をしてみてください。『のっぽのサラ』で知られるマクラクラン。彼女の作品を読むのは、これが三作目でしたが、最も好ましく思った作品でした。ラブ。