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出 版 社: PHP研究所 著 者: 林けんじろう 発 行 年: 2025年07月 |
< 不完全宣言 紹介と感想>
この物語、わりとモヤっとしていて、不完全燃焼のところがあるのですが、そもそも不完全宣言というタイトルだしな、などと納得しています。いえ、その微妙な感じが身上なのです。それよりも何よりも、序盤に出てくる、「お寿司と野菜が合体した感じの名前」のスポーツカーというヒントだけの存在が気になって仕方がないのです。「助六トマト」のようなと喩えられている、そのパターンで類推しても思い浮かばないのです。ばってら茄子的な名前の車があったかなあ、と考えつつ、後半に進むに従い、さらにヒントが登場しますが、結果的に正解が分からず、スッキリしません。もしかすると正解などないのではないかと思えてくる。あらかじめないものを探しているのだとすると、その徒労感は大きいのですが、読後感がそれに支配されてしまうのは残念なところです。なんなんだろう、正解は。そういったモヤモヤは物語全体にも感じるところですが、現代(2026年)的なセンシティブで考えると、こうした、はっきりしない感じが正解に近いような気がしてきます。正解が存在するとしてです。やたらと謝ってばかりいる気弱ではっきりしない、ちょっと情けない父親への反抗のため、自分の十二歳の誕生日に「家出」をする女子を主人公にした物語です。現代の家出物語の例にもれず、これは(まっとうで本格的な)家出ではない、ということが前提であり、リスクヘッジやセーフティーネットも用意されています。十二歳の家出女子、新宿に行く、となれば、ああ、これが噂のトー横界隈への参戦かと思いきや、そうした影はなく、裏社会とは隔絶したところで物語は進みますので、いたって安心できる、ほんわかとした物語ではあるのです。家出物語の効用は、もちろん「心の家出」として、自分と向き合うことではあるのですが、ここもやはり、なにかが変わった成長の兆しが、読み取りにくいところがあります。そこがまたセンシティブなゆらぎであり、今様です。一読だけだと、やや読み飛ばしてしまうところがあるようなので、もうちょっと深く読み込んでみます。
山形で暮らす香保(かほ)はもうすぐ十二歳の誕生日を迎える小学六年生。飛行機に乗り、父親と一緒に鎌倉に住む叔母のネリちゃんの家を訪ね、しばらく滞在することになっていました。ゴールデンウィークに父親と二人で、父親の妹であるネリちゃんの家を訪ねて、香保の誕生祝をすることが恒例行事になっていたのです。香保が気になるのは、いつもながらドジな父親の行動です。方向音痴ですぐにモノを失くすし、ろくに会話の受け答えもしてくれない。離婚して母親がいない家庭で育った香保としては、この鎌倉でネリちゃんの家に滞在する時が、心やすらぐひと時であったのです。しかも、鎌倉には親しい友人の椎菜(しいな)が住んでいるのです。椎菜と会えることも香保の鎌倉滞在の楽しみのひとつでした。ところが、再会した椎菜の様子がどうもおかしいのです。受け答えの仕方もなんだか変だし、元気がなく、何かを隠しているようで気になります。問いただしたところ、椎菜は大切にしていた、ぬいぐるみのみっ太を失くしてしまったというのです。薄汚れた古いぬいぐるみながら、椎菜にとっては大切な存在であったみっ太。香保は誕生日のお祝いをキャンセルして椎菜と一緒に、みっ太を探す旅に出ることにします。ただ、これは、逆であったかも知れないのです。みっ太を探すことは口実で、父親と誕生日祝いをすることをキャンセルしたかったからなのです。香保は、ネリちゃんと父親の話の中で、母親が出ていってしまったきっかけを知ってしまいます。それは、父親の不甲斐なさからであり、その父親の気弱な気質を大いに引き継いでいる自分もまた、母親に見限られたことを感じていたのです。父親と一緒に誕生日を祝いたくない。そのために、香保は椎菜のなくし物を探すという口実で家を出ることにしたのです。どのみち一日限定で、書置きも残していますが、香保の胸には、これは家出ではないのか、という思いが去来します。そんな気持ちを抱えながら、椎菜がみっ太をなくしたかも知れない、東京の町に二人で出かけたのです。さて、ここから二人の東京めぐりのロードムービー的展開がはじまります。果たしてみっ太は見つけられるのか。そして、父親に対する複雑な思いを抱えた香保は、この家出から何を得るのでしょうか。
誕生日を祝ってもらえる、という幸福については、あえて意識して考えなければならないところがあります。教職課程の教育心理だったか教育原理の授業で「教師は誕生日やクリスマスというものがすべての子どもにとって幸福なものだという前提でいてはいけない」という主旨のことを説かれた記憶があります。他の多くの子どもたちが幸福を満喫している時に、それを享受できない子どもたちの疎外感を考えよということなのです。これは多いに影響を与えられた物の見方ではあったのですが、それを言い出すと、すべてのイベントが微妙な色彩になるので、スタンダードも意識しなくてはと考えるところです。誕生日を祝ってもらえる幸福は、物語の前提として、そこからの展開が大切ですが、この前提に守られている主人公の幸福を思います。ちょっと父親を腹立たしく思った果保は、プチ家出を決行することになりますが、最終的に、新宿で父親と合流し、父親の人柄や彼なりの誠意を知ることになります。ドジで気弱で謝ってばかりだけれど、自分を愛し、守ってくれる大切な存在。そこに気づいただけでも、家出の効用はあったようです。不完全であっても、みっともなくても愛される。それは、自分もまたそうなのです。みっともない父親に自分を投影していた香保は、自分が愛されていることを知ります。実にささやかな揺らぎがつなぎとめられている物語で、そうそうショッキングなこともない展開ですが、現代(2026年)とはそういうセンシティブな揺らぎに翻弄される時代なのかも知れません。言葉を発するとき、つい「あ、」をつけてしまうという気弱さ。そこをフォーカスしてあえて気にする、という繊細さをすくいとる物語です。さて、叔母のネリちゃんが乗っている赤いスポーツカーなど、ついぞ、鼻もちならない成金趣味的のメタファーみたいに受け取ってしまうのですが、単純にカッコイイと考えるべきであって、やはり反省すべきは自分の偏向した感受性の方です。非常にヤワな感じの父親の職業は、高校の体育教師であるということに意外性を感じている自分もいます。このあたり、自分の偏見が強いことを感じています。誕生日を祝ってもらえない子が家出をするのではなく、祝ってもらいたくなくて家出をする子がいる、ということ。現代の家出観を考える上で、これもまた感慨深いところなのです。
