君たちは今が世界(すべて)

出 版 社: KADOKAWA

著     者: 朝比奈あすか

発 行 年: 2019年06月

君たちは今が世界(すべて)  紹介と感想>

ユートピアのような小学校生活を経験された方もいれば、デストピアのような小学校生活を送られた方もいるでしょう。どちらの教室も実在すると思います。ただし、両者を描いた物語では、圧倒的に後者の方がリアリティがあると言われます。現代の教室の認識として、楽観的な見方は甘いと思われるのです。実際は、程度の問題です。ユートピア寄りの教室もあれば、デストピア寄りの教室もあるでしょう。それを定量的に測る指標はありません。それでも現代(2023年)の空気感は後者が勝ることを支持しています。ただそれを大勢が肯定している訳ではない。あるべき理想の教室の姿ではないからです。自分も子どもの頃に学級崩壊を経験しており、コントロール不能になった教室を体感しています(しかも、そんな時に代表委員だったりしたものだから、色々と大変でした。家の方も多難な時期で苦闘していて、まあ、ゾッとする時間です)。教室が機能不全に陥ってしまう要因は複合していますが、自分の経験則からすると、端的に言って影響力のある「誰かのせい」です。多くの子どもたちは付和雷同です。集団の小さな悪意や無関心が場の空気を淀ませていく相乗効果もありますが、基点はそこではないと思います。だからこそ改善の余地はあります。本書では、かなりデストピア感のある教室が描き出されます。その教室にいる子どもたちの群像劇です。各章で主人公となる子どもが変わり、それぞれの視点で状況が語られていきます。問題事例のケーススタディとしては、この教室の間違った点をいくつもあげることができます。物語としては、そうした状況の中で、子どもたちがどう心を動かしていたのかが感動の焦点です。自分としては、小学生時代など思い出したくもないものです。ただ、真っ暗なだけのものでもなかったのか、と、あの時期を踏まえて現在の自分があることを考えさせられます。ということで、デストピアの教室にダイブする重い読書体験が待っている作品ですが、胸に灯される光もまた感じられる良作かと思います。2019年に単行本が刊行され、2021年に書き下ろしの章が追加され文庫化されています。文庫版の方がより作品世界が輻輳して深まっていますので、そちらをお薦めします。

六年三組の調理実習で事件が起きます。実習用のパンケーキの生地に異物が混入していたのです。混ぜた薄力粉がやけに泡立つことを不審に思った家庭科の浜田先生は、生地を口にした途端に吐き出すと、その異常の原因にすぐ気がつきます。子どもたちが生地に洗剤を混ぜたのです。泣きながら家庭科室を出て行く浜田先生を尻目に、喝采を浴びたのは尾辻文也でした。六年三組では度を越えた悪ふざけがエスカレートしていました。授業中に一斉に先生とは逆の方向を生徒たちが向いたり、生理用品を教卓に放置して、先生の反応をからかったり。お調子者の文也は男子たちにそそのかされ、洗剤を混ぜる暴挙の実行犯になりましたが、それを容認したのはクラス全員です。事件が発覚しても悪びれることもない子どもたちを前に担任の幾田先生はついに「皆さんは、どうせ、たいした大人になれない」と言い渡し、法的な処置がとられることに言及します。そこで教室の形勢は変わり、今度は実行犯である文也が槍玉に上げられることになるのです。悪ふざけと身勝手な傲慢さばかりが目につく教室の荒野で、空気を読みながら周囲に同調している子どもたち。しかし、それぞれの胸に兆しているものは、誰にも告げられないまま心の中に渦巻いていました。物語は教室でつい調子に乗ってしまった文也の視点から始まります。周囲に乗せらて引き返せない場所へと進んで行ってしまいそうな自分への不安や葛藤。男子たちが悪ふざけに興じる一方で、女子たちはそのパワーシフトで強権をふるうクラスの女王である香奈枝の顔色をうかがうことに窮しています。教室のそれぞれの場所で、今を生き抜きぬこうとしている子どもたちの葛藤が、語り手を変えながら描き出されていきます。

『君たちは今が世界(すべて)』というタイトルが秀逸です。子どもたちの一人称で語られるこの物語を俯瞰するこの言葉は、一体、誰の視点なのか。子どもたちは今を生き抜くために協調し、バランスを崩した教室にも順応しています。その個性はそれぞれですが、それはまだ子どもたちの一面的なものに過ぎません。すべてではないのです。このタイトルは反語です。担任教師を絶望させ「たいした大人になれない」と一刀両断されてしまった子どもたちは、そこで終わったのか。周囲に流されて、調子に乗り、悪ノリし続ける子がいます。人を傷つけることに無頓着で、身勝手で傲慢な子がいます。自分が傷つくことよりも誰かが傷つくことに敏感に反応してしまうエンパシー(共感力)が強く、生きづらさを感じている子もいます(このエピソードは文庫版でピックアップされます)。おそらくは発達障がいでコミュニケーションに難があり、我知らず周囲と軋轢を生んでしまう子がいます。駄目になって行く教室を斜に見ながら、我関せず、やり過ごそうとしている子もいます。自分では教室を変えることできない、そんな彼らの心の声に耳を傾けながら、無情で無常な世界をどう生きるべきか、そして子どもたちに何が与えられるべきだったかを考えさせられる物語です。誠意や優しさ、思いやりを持たない場所である教室のモードを、誰も変えられるないままタイムオーバーすることは往々にしてあります。その結果として、自分のように、思い出したくもない小学校時代の記憶しか残されていない人間ができあがります。今、何もできなかった自分を棚上げしながら、最善の解決策を考えています。特定の子どもを排除すれば教室は改善されたのか。子どもたちをあるべき姿に導けなかった教師や学校の力不足だったのか。それでもまだ子どもたちが豊かな大人に成長できる道すじもあるのだと、その可能性が否定されていない物語です。それはパンドラの筐の底にある、なけなしの希望です。子ども時代は近視眼的にしか自分のことも周囲のことも見えないがゆえに、こうした物語の効用もまた考えさせられます。少なからずなぐさめられるところはありますね。