沙羅の風

出 版 社: 国土社

著     者: 松弥龍

発 行 年: 2023年04月

沙羅の風  紹介と感想>

この物語の原型となる作品を今(2023年)から六年ほど前に拝見していて、その際に作者の松さんと『めぐりめぐる月』の話をした記憶があります。旅を描く物語であり、その旅の終わりに旅の目的が明らかにされる展開が共通していたからです。そんなことは覚えていたものの、この物語のディテールまでは忘れていて、今回、完成された作品に、あらためて慌てふためいているところです。この物語もまた旅のお話です。当初、その旅の目的は読者にも、主人公にさえも明らかにされていません。突然、旅に出ると言い出した母親につき従って、母親の地元へと連れて行かれた十一歳の娘は、これまで話を聞かされたこともなかった母親の過去と対面することになります。それは、娘にとっても衝撃的なことではあるのですが、いつか陽の当たる場所に出さなければならないことだったのだろうと思います。この旅の終わりに待っているものをどう受け入れたら良いか。読者もまた問われるところです。さて、旅と旅行はどう違うのかという疑問がわいてきます。旅行が行楽(レジャー)だとすれば、旅には試練を想起させられるものがあります。かわいい子には旅をさせよ、がモラハラめいた妄言に聞こえる現代ですが、確かに成長の糧にはなるのです。もちろん、そこには大人のサポートが必要であって、子どもが愛されているということの再発見があれかし、なのです。子どもが愛され、守られるということについて、大いに考えをめぐらせられる物語です。

明日から春休みが始まる前日。修了式を終えて家に帰った沙羅(さら)に、お母さんである「怜子(れいこ)さん」は、一週間のお休みが取れたから、今から旅に出かけようと誘います。既に荷造りもできていて、お墓参りもかねて、怜子さんの地元である鳥取へと向かうというのですが、沙羅には初耳のことばかりです。亡くなったお父さん方の祖父母ではなく、お母さん方の祖父母のことは、これまで一切、教えられていなかったからです。この時、沙羅にはお母さんの胸にどんな思いが兆していたのか知る由もありません。いつものお母さんの気まぐれにやや呆れながら、生まれて初めて新幹線に乗り、広島経由で鳥取へと入った沙羅。お母さんの友だちに歓迎され、宿に泊まり、おいしい食事で、旅を満喫する沙羅ですが、お母さんの様子がどうもおかしいことに気づきます。次第に口数が少なくなるお母さんは何か考えに沈んでいます。沙羅もまた幼い頃にお父さんを事故で亡くしたことで、寂しさを抱えている子で、ちょっと考え深く敏感なところがある子なのです。お母さんが何かに気持ちを捉われていることが気になった沙羅は、ひとりでお母さんがかつて暮らしていた家を訪ねてみることにします。そこで沙羅は、お母さんがずっと胸に抱えたままだった秘密に近づいてしまいます。そして、この旅がお母さんにとって、どんな意味があるものだったか沙羅は知ることになります。母と娘がそれぞれ胸に抱えていたものが解き放たれる、そんな旅の終わりが目の前にあります。

100%健全な育ち方をした人はいないのだろうと想像しています。程度の差はありますが、子ども時代に遭遇した理不尽な出来事を誰にも言うことができないまま胸にしまい、普段は思い出さないようにしている大人も多いでしょう。静かに忘れていくというやり過ごし方もあります。この物語では、お母さんが意を決して、自分の過去に立ち向かうことになります。端的に言えば、それは親から虐待を受けていたという事実です。親は子どもを矯正するつもりだったのかも知れませんが、過度の叱責は子どもの心を歪めます。歪められた心は、歪んだなりにこの世界を生きていかなければならないけれど、歪みや綻びが生まれることは必然で、それがまた誰かに悪い影響を与えることもあります。海外の物語では、心を病んだ人は、カウンセリングを受けたり、自助グループでのセラピーなどで緩和される描写が多いと思います。要は、治療を受ける必要があるのです。それには、自分が抑圧されたことで、健全な状態ではないのだという自己認識が必要です。ただ、自分の傷からは目を逸らしたくなるものですよね。この物語で、沙羅のお母さんが自分の傷に向き合おうとした原動力について考えさせられます。無論、そこには沙羅の存在があります。人はなかなか自分のためだけに意を決することはできないものです。母と娘の難しい関係を描いた物語は多く、無理をしてわかりあわなくても良い、という帰結も近年の児童文学作品では往々にしてあります。一方で情愛をもって母娘が結びつくことで、壁を乗り越えていくこともできるのだと、そんな理想を語る物語もあっても良いとまた思うのです。物語の冒頭に遡って、旅に出ようと沙羅を誘ったお母さんが、どんな思いを抱いていたのか。お父さんを亡くして、ずっと人と別れることを恐れながら、普段は明るく振る舞っている沙羅の想い。胸の奥に沈めた思いが解き放たれる瞬間のスパークに陶然とする物語です。