夜の子どもたち

新版

出 版 社: パロル舎

著     者: 芝田勝茂

発 行 年: 1996年07月


夜の子どもたち  紹介と感想 >
フランシス・ジャムの詩に『子どもたちは夜の東雲(しののめ)黄昏をしか知らない』という一節があります。子どもたちが知りうる世界は、夜の明け方と夕暮れのみで、真夜中の闇の世界は不可知の領域である、ということを意味しているのだろうと解釈しています。子どもは本来、陽の光の下で生きるもの。だからこそ余計に、闇の領域への関心と畏怖を同時に抱いているのではないか思うのです。子どもの頃、九時就寝を義務づけられていた僕は、目が冴えて眠れない夜に、目覚まし時計の蛍光の針を見つめながら、眠れないことに罪悪感を覚えていました。十一時、十二時ともなれば、子どもが起きていてはいけない時間に目を覚ましている自分を、まるで悪事を働いているかのようにさえ思っていたのです。月明かりにほのめく天井の陰影が人の顔に見えてくる。そんな脅威や畏怖も、ラジオの深夜放送を聴くような年頃になると吹き飛んでしまうのですが、あの小学生の夜の不安感と異世界感を、今も時折、思い返しています。創作をする人には、あれこそがインスピレーションの源泉となるものかも知れません。本書は、「ある恐怖」に憑かれた子どもたちを主人公にした、社会派のファンタジーなのですが、子ども心が抱いた根源的な恐怖に、この「夜の領域」があることに惹き寄せられてしまいます。

非行ゼロの教育市を標榜している八塚市。この市で突然、発生した五人の少年少女の登校拒否。現場の教師が手を尽くしてみても、その原因は究明できず、市の教育委員会は著名な心理学研究所である山葉心理学研究所に、カウンセラーの派遣を依頼しました。命を受けたのは、まだカウンセリングの研修生で大学生の正夫。カウンセラーとしての予備審査を兼ねての実践活動でした。正夫は、先輩研究員で今回の予備審査の審査官である曽根ルミエとともに、早速、現地での調査に乗り出すことになります。五人の少年少女の登校拒否の理由は皆目、見当がつかず、この5月までは、普通の子と同じように、学校に通っていたといいます。同時期に発生した、全く関連のない生徒たちの登校拒否。中学生から高校生まで個性の違う少年少女たち。少しずつ彼らの心に働きかけ、登校拒否の理由をさぐろうとする正夫ですが、彼らが学校に行けなくなったわけは、どうしても口にしようとしません。『・・・怖いからいえない。いってもわからない』『いったら殺されちまうよ』。彼らは、何かを恐れている。やがて、カウンセリングの中から、彼らに、ひとつの共通項が見えてきます。彼らが学校で体験した恐怖。そして、彼らが共通して犯していた、ある「禁忌」。それは、この八塚市でのみ禁じられている行為。彼らの恐怖体験は、その罪悪感による幻想なのか、それとも、もっと別の策謀によるものなのか・・・。

未熟なカウンセラーである正夫は、子どもたちの心とシンクロできることもあれば、断定的に物事を考えてしまい、間違いを犯すこともあります。ルミエに諌められながら、正夫は子どもたちの心に根付いた恐怖に近づいていきます。それは、この、あまりにも健全すぎる町、八塚市の抱えた闇の部分に切り込んでいくことでした。市民には隠された「夜の領域」。そこには、子どもたちが決して近寄ってはいけないものが隠蔽されていました。子どもたちに伝えられる伝説。その神秘に守られた謀略。正夫とルミエと子どもたちは、心の闇を払拭するために、真実に近づいていこうとします。しかし、隠されていた事実には、人間がもたらす最大の罪業が渦巻いていたのです。カウンセリングの手法で、ひも解かれていく、子どもたちの心。未熟な正夫は、決して、優秀なカウンセラーではありませんが、少しずつ、子どもたちの心を理解し、彼らが抱えた恐怖を取り除くために冒険的な挑戦を試みることになります。夜の闇にいどんでいく少年少女。行く手をはばむ真っ暗な領域に、恐怖をいだきながらも惹かれていく心。夜の彼方にあるものを見極めること。底知れぬ闇の行方を見届けること。真の暗闇の中から、少年少女が見つけ出した答は、一体、なんだったのか。ともかく、この、無限に広がる漆黒の「夜」の脅威を味わって欲しいと思う、蠱惑的な一冊です。