海のメダカ

出 版 社: 偕成社 

著     者: 皿海達哉

発 行 年: 1987年09月


海のメダカ  紹介と感想 >
不思議な隣人。中学二年生の康男が家族四人で暮らしているアパートの隣の部屋に越してきた父子、横藤田さんは、なんだか得体の知れない人たちでした。まるで、世の中を避けているような暮らしぶり。引っ越しの際に、膨大な量の本を運びこんできた元大学講師だという父親は、やせたソクラテスみたいな風貌しており、翻訳を仕事にしているものの、喫茶店などにおしぼりをデリバリーする方が主な生業のようで、一日中、玄関前に置いた洗濯機を回しています。息子の方も変わっていました。いつもちょっと悲しいような、怒ったような顔をした、興福寺のアシュラ像に似ている少年、佳照。彼はまだ義務教育を受けなくてはならない年齢なのに、学校には行かず、小学三年生の時から通信添削で勉強していました。外国語もマスターし、大学受験レベルの学力を身につけている佳照は、将来、司法試験の合格を目指しているといいます。ごく平凡な少年である康男からすると、そんな佳照には距離を感じてしまうのですが、同じアパートのよしみでだんだんと親しくなっていきます。やがて、康男は、佳照が双子の弟を学校での事故で亡くして以来、心痛で学校にいけなくなったことや、その事故の件で学校側との裁判を闘い続けてきたことを知ります。一筋縄ではいかない事情を抱えた人たちと触れ合うことで、平凡だった康男の世界は大いに揺るがされていきます。

登校拒否に校内暴力。1980年代のホットなテーマも盛り込まれた作品です。康男のアパートに階下に住む、同い年の女の子、道代は、学校でイジメを受けたようで、学校にしばらく登校できなくなっていました。一方、康男のクラスでは、ツッパリ三人組が授業中に先生にくってかかり、教室のガラスを割るなどの暴挙に出ています。そうした光景を傍から見ている康男は、色々と心配しながらも、とりあえず目の前にある野球部の練習に夢中になることで毎日を過ごしています。できれば目立ちたくないし、目立つようなこともできない。野球部でも大活躍できるわけでもない。それでもモテたいと思うし、女の子への関心は大いにある。かといって、声をかけることさえもできない。どこまでいっても、しごく普通の思春期の子である康男。ふたたび学校に戻った道代が、遅れを取り戻すため、勉強を教えてもらいに佳照の部屋に通いはじめたことに、康男はただならぬ思いを抱きます。しかも、道代は、あのツッパリ三人組にも声をかけて、奇妙な勉強会が佳照の部屋では開かれるようになるのです。一体、彼らにはどんな共通点があるのか。自分たちは「海のメダカ」であると道代は康男に告げます。川の中でおとなしく泳いで、弱いなりに小さいなりに平和に楽しく暮らしているメダカではなく、海を目指しているメダカなのだと。川のメダカタイプの康男としては、複雑な気持ちを抱いてしまいます。ユーモラスな文体と楽しい会話や人物描写。突き抜けた生き方をしている周囲の人々を眺めて、価値観を揺るがされながらも、ごく普通に生き続ける少年の、それはまた満ち足りた日々を描く好作品です。

京浜東北線のアナウンスがいつも聞こえてくる狭いアパートで、仲良く暮らしている康男の家族四人。とくに高校生の姉、みすずが、その開放的な性格でこの物語を明るく照らし続けます。おせっかいでおしゃべりで人のいい大家さんの家賃三万七千円のフロ無しアパートには、ちょっと昔の長屋めいたコミュニティが存在していて、孤独死のニュースに皆で驚いたりしています。家族の生活はそれほど豊かではないものの、貧乏だなんて自覚はありません。みすずも康男も、大学に行くことが将来の視野に入っているし、このアパートに住んでいる人たちも、やがては一戸建てやマンションを買って離れていくための通過点のような感覚でいるようです。「一億総中流の上時代」であるという認識。バブル景気直前の経済的希望感。そんな経済的な豊かさの底上げが図られた時代には、どんな問題が子どもたちをとりまき、児童文学は何を描いていたのか。子どもたちの視線が、自分たちをとりまく社会にではなく、より自分の内側へと向けられている様子が描かれていく児童文学。小市民であることで、充分に幸せでいられる社会が実現されたということかも知れませんが、どこかそこに収まりきらないエネルギーを抱えているのが海のメダカたちであり、いや、川のメダカたちが抱えるモヤモヤした気持ちこそがまた読者に共感を呼ぶものかも知れません。