出 版 社: あかね書房 著 者: ひろはたえりこ 発 行 年: 2004年09月 |
< 海の金魚 紹介と感想>
僕が生まれる四半世紀前は太平洋戦争の真っ只中でした。父はまだ中学生で、軍事工場に動員されていました。母は、満州で幼い妹や弟と一緒に暮らしていたそうです。子どもの頃、祖母から、終戦以降のソ連軍の侵攻と略奪に脅えたことや、三人の子どもを抱えての内地への引き揚げの苦労話を良く聞きました。自分も成長して、藤原ていさんの『流れる星はいきている』などの本から、祖母や母たちの体験した世界を知ることができましたし、山崎豊子さん『大地の子』のような中国残留孤児の悲劇の物語も、すぐそばにある現実であったのだと震撼したものです。父の長兄は、インドネシアの捕虜収容所で終戦を迎え、仲間とともにそこを脱走し、やがてスカルノの革命政府に合流しました。現地で奥さんをもらい生活を送りながら、最期は若くして客死したそうです。二度と日本の土を踏むことなく逝った伯父。戦争という大きなうねりが、一般の庶民を巻き込み、その運命を様々に捻じ曲げてきたのだということを、ごく身近な自分の血縁の中にも知ることができます。四半世紀が遠い昔ではないことを実感として感じられるようになった現在では、自分の生まれた時代も、決して、戦争から遠く離れた時代ではなかったことに驚きます。「家族の事件」として戦争を考えるとき、それは単なる歴史的な過去とは違った存在感を感じるものです。広島の原爆や、東京大空襲、沖縄戦の戦禍など、子どもの頃から多くを教えられてきたものもあれば、あまり語られない悲劇について、後に、驚きをもって知ったものもあります。「北方領土」も、そのひとつです。ソ連軍が北海道の四つの島に侵攻し、もともと島に住んでいた日本人がどのように、生まれ育った島を追われて行ったのか。歴史の中の出来事として認識はしているものの、リアリティのある「家族の事件」のようには捉えてはいませんでした。本書は現代の小学生である広夢が、祖父とともに不思議な力によって、過去の時間に遭遇する物語です。そこには、祖父の少年時代、第二次世界大戦が始まる前の日本人が暮らしていた、アイヌ語で「美しい島」と呼ばれた色丹島がありました。現代の少年の目が、歴史に眠る過去の悲劇に遭遇する、「家族の事件」としての戦争。ファンタジーの中で、人々が遭遇した悲劇の痛みを知る、そして平和への願いを抱く、そのときの少年の眼が見開かれる瞬間の心のスパークが鮮やかな作品です。
広夢のお祖父さんの名は「久さん」。孫にも、決して「おじいちゃん」とは呼ばせない久さんは、ちょっと変わった性格の持ち主。でも、このところ、更に様子がおかしいのだと、夏休みに祖父母の家に泊まりにきた広夢は、祖母に告げられます。さて、夜になって、祖父に廊下に連れ出された広夢は、不思議な現象を体験させられます。柱時計の鐘が鳴る時、波の音が聞こえ、家の廊下が、遠い「島」へとつながる回廊となるのです。広夢は祖父と一緒にその海辺に降りたちます。ついにくることができた・・祖父は万感の思いのようですが、広夢はなにがなにやら。再び、祖父と、この「島」へ出かけた時、広夢は海岸で一心に泳ぎの練習をしている少年と出会います。少年の名字は、田中久という祖父と同姓同名。広夢のパジャマ姿をいぶかる久少年は、祖父と同じようにカナヅチ。どうも話がかみ合わない少年との会話。やがて時が満ちて、現実世界へと引き戻された広夢は、だんだんとあの廊下からつながる世界が「どこ」なのか気がつきはじめます。祖父の久が少年時代を過ごした故郷は色丹島。現在はソ連から引き継がれロシア領となっている、日本人が住むことのできない「北方領土」でした。これから戦争がはじまり、恐るべき時代が到来する。ソ連軍が侵攻し、多くの命を犠牲にしながら、住民たちが、この島を脱出することになる未来を、久少年は、まだ知らないのです。久老人が、子どもの頃に出会った「神様」とは誰だったのか。そして、これから島に訪れる惨劇から、久少年たちは逃れることはできるのでしょうか。
Vの字まゆに、への字口。頑固で一本気な久さん。まだ年ではない、と言って、決して、おじいちゃんとは呼ばせない。「わたしは手加減されるのが、一番きらいだ」なんて、プライドが高くて、強情っぱりなところも、なかなか素敵なのです。そんな久さんが、事件を通じて、孫の広夢に「これからは、おじいちゃんとよんでくれ」と言ってしまうあたりの心のドラマにすっかり虜になってしまいました。久少年もまた、久さんと同じ気骨を持った少年です。漁師の息子なのに泳げないコンプレックスを抱えて、それでも必死にがんばっています。おじいちゃんの過去の時間と友情を育てた広夢は、この久少年にやがて訪れる戦争の惨禍を知り、なんとかならないものかと苦悩します。歴史の中の一行の記録に過ぎなかった過去の悲劇が、広夢の心にリアルに浮かび上がっていきます。自分と同じような少年であった祖父、その心を通じて、戦争を見つめる視線。そして、自分自身もまた、色丹出身者の末裔として、その地に暮らしてきた人々の血を受け継いでいるのだという、魂の連続性を知ることになるのです。ところで、かつては中学生であった僕の父も、息子である僕ら兄弟が「こんなことをしましたよ」と、成長した大人としてささやかに自慢話をしても喜ぶでもなく「いや、僕の方がもっと凄かった」と過去の実績を話しはじめる、いまだに少年めいたところがあります。いや、父なりに子どもの成長を喜んでいたのか(この文章、父が生前に書いたものです。懐かしいです)。この物語の久さんのキャラクターは、本当に良くって、永遠にとっておきたい日本のおじいちゃんという感じです。いや、おじいちゃんと呼ぶな、と怒られるかな。