15歳の肖像画

portrait

出 版 社: ポプラ社 

著     者: 浜野卓也

発 行 年: 2003年06月

15歳の肖像画  紹介と感想>

スタンプカードを二枚用意します。人を傷つけたり、傷つけられたりするたびに、それぞれのカードにハンコを押して、どちらのカードが先に埋まるかで自分の人間としての本質を見極める、という試みですが、まあ、やめた方がいいです。それは数量的に相殺されるものでもないので、どちらのハンコが増えるにしても、イヤな感じが残るだけです。そして、多分に、自分が誰かを傷つけていることに気づいていないことも多いので、傷つける側のカウントは漏れてしまいがちです。中学一年生の時に同じクラスの、ろくに口もきいたことがないような女子に突然『こいつキライ』と言われたことがありました。こうした局面では『うるせーブス』ぐらいでカジュアルに返せると牧歌的なコミュニケーションという感じで良いのですが、ただ戸惑って、あいまいに微笑んだまま、ひそかに傷つきました。果たして、あの女子は僕が未だに根に持っているということに、気づいているのか。多分、5分後ぐらいには、自分が言ったことも記憶から消えていたのだろうと思います。まあ、そんなものなのでしょう(嘘。正解はちゃんと抗議すること、です)。ところで、僕は中学生の時に友人に対して発した迂闊な一言を、ずっと気に病んでいて、いつか謝りたいと思いながらも、今さら、そんなことを言っても不気味がられるだけだろうと半ば諦めかけています。結局のところ、こんな謝罪は自分が良心の呵責から逃れたいというズルさであって、相手にとってはなんらメリットもないはずだからです。「時効のない苦しみ」を、呵責とともに生きることが償いなのかも知れず、それもまた、「赦されないこと自体が赦しになる」という、逆説的な自己満足だなと、自分のしょうもなさを感じたりしています。呵責が免罪符になる、なんてことはない。自分がいつの間にか踏み潰していたものについては呵責すら感じないのだから。人はどこまでセンシティブでいられるものかと思います。それとも、人の心の動向に自分が関与しているなんて、思いあがりなのか。人と関わるということは、今さらながら、難しいことだなと思います。

ということで、この物語の主人公、中学三年生の女子、由美が、何も言わないまま転校してしまった同級生の行方を捜しに、単身、東京から大阪へやって来た、という「いてもたってもいられない」気持ちも、それなりに理解できるところなのです。何故なら由美は、同級生の山本君を、思わず口から出てしまった言葉でザックリと傷つけてしまったのだから。いじめられっ子の寡黙な少年は、あらがうこともないまま、ただ傷ついていました。由美は、同級生のアウトロー、美香に指摘され、自分のやってしまったことに、あらためて呵責を覚え、山本君に謝りたいと思っていました。でも、そう思ったときには、山本君はいない。何故、山本君は、学校にちゃんとした届出も出さないまま、急にいなくなったのか。由美は調べていくうちに、彼の複雑な家庭事情や、内側に抱えていた苦悩について、だんだんと知ることになります。関西には、別居している由美の父が住んでおり、そこを足場にして由美は調査を開始します。祖父の看護をめぐって、父と母は考え方の違いから別居することになり、また、もともとの性格の違いなどから、両親には、空間的な距離だけでなく、心の距離も開き始めていました。由美は、山本君のことを探しながら、自分と両親の関係についても思いをはせていきます。両親、友人たち、先生との関係など、中学三年生、十五歳が心を痛めながら、世界に目を見開き、成長していく姿が清々しい物語です。

一昔前の「ジュニア小説」のような感覚をもった作品です。YA的な設定でありながら、昨今の作品(この文章は刊行当時に書いたものなので、その時代です)とは、大分、手触りが違います。由美は、まじめで、誠実に自分自身を見つめている女の子です。心の姿勢が良い、というか、しゃんと背筋が伸びた心地よさがあります。その真摯さが暴走して、大阪まで山本君を探しにいく、という暴挙に出てしまう冒頭もなんだかジュニア小説な感じではあるのです。作品中に、職員室に入ってきた由美に、先生が『おれはやぼてんだから、ボーイフレンドの相談なら、よそへいってくれ』なんて言う台詞があったり、こいつ、って感じで女生徒のオデコを人さし指でつついたりするのも、設定自体は現代的なのですが、ちょっと違和感がありますね。著者の浜野卓也さんは、1926年生まれで、この作品を書かれたのは七十代後半です(そして、この本の刊行の2か月後に亡くなられています)、やはり、そうした年齢の視座から描かれる十五歳の物語というあたりの異質さ、というか「奥行き」はあるかも知れません。「授業を受けもってくださった先生」なんて、中三の女の子から敬語がさらっと出てくるあたりもまた。いじめっ子の少年の心の闇にもちゃんと説明がついているし、そうした子に対しても、作者の優しいまなざしがあります。僕は、意地悪な人間は意地悪だし、無茶苦茶な奴もまた存在する、と理不尽なものの存在も容認してしまうところがあるのですが、そこは世界に対するまなざしの違いなのだろうと思います。「寛容」ということ、なのかも知れません。果たして自分は、七十代の達観を迎えた時、中学生時代の諸々を穏やかに忘れていたりするのか、それとも葛藤を続けているのか。