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出 版 社: 講談社 著 者: 長谷川まりる 発 行 年: 2022年09月 |
< 満点 in サマラファーム 紹介と感想>
男性上司が、子育て中の女性部下を残業させずに早く帰そうとして、さあ、お母さんは早く帰って晩ご飯を作らないとね、などと促すのは、母親が食事を作るものだというジェンダーバイアスによる偏見に満ちたものです。優しさや気遣いの言葉であるはずなのに、なんだか残念な感じになります。共働きの家庭で母親が料理を担うことは多いかも知れませんが、もし父親の担当だった場合は、なんとなく当てつけのようにも聞こえます。いや、当てつけのように聞こえるのは、性別による役割分担を前提にしているからであり、別に両親のどちらが料理を作ろうとかまわないので、あえてこだわること自体が囚われている証拠です。そもそも男性上司が、と例証しはじめたこと自体にもバイアスがかかっていて、などとキリがない例え話をそろそろ切り上げます。多様性に配慮することや、性差別をしないことなど、繊細で鋭敏な感覚が求められる現代ですが、本書の主人公の十六歳の少年は、そうした現代的な正しさをあらかじめ身につけています。ごく一般的な「普通」を知らないし、逆にスポイルされてもいない。特殊な環境に育ったことで、色々な境遇にいる人間へのまなざしも深いのです。若くして「なにが当たり前でなにが当たり前じゃないのは、人によってぜんぜんちがう」という認識を持っている彼の世界観の前提は、当たり前じゃない側に立っているからこそ見えている景色です。通弊した正しさですべてを断じてしまうような横暴さとは距離を置くものです。一方で、そこに目覚めてしまった人は、もはや傍若無人には振る舞えないのです。どんな特殊な事情を持つ人にも理解を示さなければならない十字架を背負っています。ここで、どちらが幸福なのかと思うところなのです。長谷川まりる作品のセンシティブは、自分の特異性に気づいているからこそ、自らに課してしまうものが重いと思うのです。常識外れで迷惑な行動をするマイノリティの人がいても、許容しなくてはならない気にさせられる昨今ですが、人を憎んでマイノリティ特性を憎まず、も考えるべきです。すべての当たり前じゃないことを引き受けなくてはならない、わけではない。このあたりの塩梅はむずかしいものです。物語の表向きの広がりの裏に、そんな感想も抱かせる好編です。
自給自足の農業施設サマラファームで暮らす満天(まんてん)は十六歳の少年。父親であるタクさんが主宰するこの施設には、ここで働きたいという多くの仲間が集まり、共同生活を送っています。満天は、このサマラファームの息子として、ではなく、一人のスタッフとして自分を位置づけています。労働力の対価をもらう。タクさんの家から独立した小屋、通称、ブタの鼻に暮らしているのも満天の独立心の現れであり、複雑な心理が滲んでいます。タクさんはこの王国の王様であり、満天はその一番の家来であるという認識なのです。タクさんは傑出したアイデアマンであり、このサマラファームの運営に心血を注ぎ、ここを支えてきました。そんなタクさんに畏敬の念を抱きながらも、満天はこの父親に距離をとっています。そこにはまた屈折した愛情があります。サマラファームには、ここの暮らしに共感した多くの人がやってきて、ここでしばらく一緒に働き、また離れていきます。この春、ここにやってきたのは、平賀瑞雪(みゆき)という男子大学生でした。大学を休学してここで働くという彼に、どうせすぐに辞めて出ていくだろうと、当初、満天は冷淡な態度をとっています。こうした新参者が、タクさんや他のスタッフからチヤホヤされることに嫉妬を覚えているのかも知れません。また、瑞雪の手前、満天の仕事を評価しようとしないタクさんのポーズも面白くないのです。しかし、意外と長続きしている瑞雪に、満天も次第に心を赦し、打ち解けていき、その複雑な家庭環境についても話を聞くことになります。タクさんが海外に旅に出てしまった夏。満天は、一旦、休暇をとって実家に帰った瑞雪から、東京にこないかと誘われます。そこには、瑞雪がマサラファームにきた本当の事情が潜んでいました。これまで知らなかった事実を満天はどう受け止めたか。この時の満天の受け身の取り方に注目です。
所謂「かも知れない」運転のように、危機を想像するすることで、事故を避けることができます。あらゆる可能性を考慮すれば、ゲイの男性に、彼女いるんですか?なんて、迂闊に聞いてしまうこともなく、地雷を踏まずに済むのです。気遣いや良し。ステレオタイプな偏見をあらかじめ回避することも良し。一般的な「普通」の無遠慮さに警戒するに越したことはありません。しかし、これは、自分が傷つけられたくないから、その防衛反応の裏返しで、感性が鋭敏になっているのではないかとも思うところです。主人公である満天の感性がこの物語の魅力だと思います。やや世を拗ねたようでありながら、気遣いの人でもある彼の感受性や機知が、どう現実に対処していくか。そして、思いがけぬ転変があるのも人生です。後半、満天は物心つかない頃に別れた母親に、瑞雪と一緒に会いに行きます。生き別れの母親に会いにいく、という展開は物語の常套ですが、近年の児童文学では色々なパターンが見られます。歓喜の再会などはなく、再会した母親の反応が鈍く、全然、劇的にならないこともあれば、母親が性転換しているという劇的すぎる作品もありました。本書のパターンも斬新です。これも、これまでの物語では許容されなかったであろう母親像であるのですが、満天はそれを結果的に認め、受け入れます。苦渋の決断です。ここには多様性、というか、どんな人をも認めるべき、という「正しさ」に疎外されることもあるのではないかを、やや思うところです。どんな人がいても良い、という理想が前提にあると、感情で納得できないことも受け入れざるをえないのです。既成の価値感に縛られない、新時代の正しさを貫く物語は人間的か。自分を赦して良いし、人も赦すべきですが、赦せないことの境界線の曖昧さも感じます。タクさんは善人だけれど、酒乱という大きな欠点があること。聖人君子ではなく、あえて許容しなければならないところがあることも息子としては十字架ですが、支えられる心地良い重さです。人は赦し、赦されて生きるものかも知れないし、そこに温かさがあるものです。とはいえ、人の本性を思うと、無理は禁物ではないかとも思うのです。意外に心の負担はあるものではないかと。