獣の奏者 第一部(闘蛇編 王獣編)

出 版 社: 講談社

著     者: 上橋菜穂子

発 行 年: 2006年11月

獣の奏者 第一部(闘蛇編 王獣編)  紹介と感想>

二巻で700ページを超える壮大な物語は、読み出せば、あっという間で、時間を忘れてしまうほどの読書の興奮に満ちていました。なによりも、主人公の少女エリンが魅力的です。清廉で聡明で、そして「悲壮」なのです。物語は彼女が十歳の時に始まり、そこから十年を越える歳月が描かれていきます。その聡明さゆえに通常の人間よりも多くを感じ取り、真理に近づいてしまったために、より悲壮な運命を享受しなければならなかったエリン。異民族同士の混血児として生まれ、緑色の瞳をした少女は、周囲の大人たちから煙たがられながら育ちました。幼くして自分の母親が残虐な方法で処刑されるところを見てしまった彼女は、心に深い傷を負いながらも考え深く育っていきます。因襲的な「掟」、人々が遵守する「規範」、国家を保つための政治的な均衡。この世界のパワーバランスが崩れないための暗黙のルールは、同時に多くの欺瞞を孕んでおり、やがて、唯一エリンだけがその根幹を見ぬき、真実に到達してしまうのです。とはいえ、何が正しいのか、真理なのかもわからない。かりそめのバランスを保つために、人間は自らを縛り、身動きをとれなくしているのです。明快な正義も絶対善も存在しない世界で、ヒロインは葛藤し続けていく。この物語を読みながら、宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』(原作の方)を思い起こしていました。ナウシカが一人で「世界の真実」に気づいてしまったように、エリンもまた傷つきながら、真実を見つけ出してしまいます。しかし、真実がわかったとしても、小さな自分にはどんな行動が起こせるのか。人間が、動物が、世界が、本当に幸せになるには、何をすれば良いのか。人間が世界を支配し従わせることや、人間が平和のパワーバランスを保つために敷いた世界の「ルール」は欺瞞ではないのか。葛藤する小さな心と、壮大な世界観が物語を紡ぎながら、人間が生きていくことの本質的な問いを投げかけていきます。大きなテーマを孕みながら、それでいて、こんなにも面白いエンターテインメントとして完成している極上の作品です。

闘蛇。角を帯びた巨大な蛇。戦場で人を乗せ、一騎当千の活躍をする神獣。決して人に慣れぬことのないこの恐ろしい獣は、大公の命により、闘蛇衆という職能集団によって育てられていました。闘蛇衆の村で、闘蛇の世話係を務める「獣の医師」である母は、この村ではヨソ者で、娘のエリンもまた冷遇を余儀なくされていました。それというのも、母は、「霧の民」と呼ばれる、特異な信条を持ち異質な風貌をした特別視されている民族の出身だったからです。ある時、発生した事件のために、まだ10歳のエリンは、母と別れ、この村を去ることになります。闘蛇衆の村があった大公領から、真王領に流れ着いたエリンは、その事件のために、心に大きな傷を負っていました。幸い、孤高の暮しをする養蜂家のジョウンに引き取られたエリン。生来の知的探求心に溢れた聡明な少女であるエリンの才能は、かつて都で高名な教師であったジョウンの元で開花していきます。家畜の世話や養蜂を通じて、小さな命への眼差しを注ぎ、多くを学んだエリンは、ある夏、野生の「王獣」を見るに及び、生物が生きていくことへの深い造詣を養っていくこととなります。

王獣。闘蛇の天敵であるこの翼のある生き物は、一匹で、数十の闘蛇を殺戮する力を持った巨大な神獣です。臣下の大公家が養う闘蛇を駆逐できる能力を持った王獣は、真王家の象徴でもあります。しかし、人間と意志の疎通を図ることのできない神獣は、真王が保護しながらも、実戦には役立てることのできない生き物でした。徳を以って民衆を統治する真王と、闘蛇を操り国の軍事をとりしきる大公。真王の最大の忠臣として仕える大公は、隣国との攻めぎあいの中で、国を守り、その手を血で汚してきたのです。光と影の役割を、国の歴史の中で分けあってきた「聖」なる真王と、「穢れ」を担う大公は、微妙なパワーバランスの中で両者の関係を保ってきました。しかし、長い歴史の中で蓄積されてきた歪みはついに亀裂を生じ、キナ臭い陰謀が真王の周囲に巻き起こります。そうした都の政治的な影響と無関係に暮していたエリンにも、やがて、その余波が到来します。大公家の闘蛇衆であった母を持ち、長じて、王獣と意志を通じさせることのできるようになったエリン。彼女に待ちうける運命は、果たして・・・。人が動物を支配し、従属させるということ。支配と服従の関係を超えて、信頼関係を築いていっても、そこには、どうしても越えられない壁があります。エリンは思い悩みながら、答えのない問いの答えを探そうとしています。人間が動物を支配、隷属させる世界。政治的な動物である人間と、野性の本能のままに生きる獣たち。世界を崩壊させないための人間の秩序が、また多くの欺瞞を生んでいく。世界の綻びが裂けようとするとき、エリンは悲壮な決意とともに立ちあがります。沢山のテーマを孕んだ、考えるべきことがたくさんある作品です。主人公を見守りながら、運命の非情な冷酷さに震撼する部分もあれば、心温かい人たちとの友愛に、また胸が一杯になるところもあります。テーマ性のみならず、ワクワクするような物語として思う存分に楽しめる作品です。