出 版 社: 福音館書店 著 者: 藤巻吏絵 発 行 年: 2004年07月 |
< 美乃里の夏 紹介と感想>
小学五年生の夏というと、皆さんはどんな思い出があるでしょうか。十代のスタート地点の夏です。自分の場合、四年生の終わりに母親を亡くしていたり、クラスは学級崩壊していたり(そんな時に学級委員だったり)、その他、色々と問題があって、ともかく大変で、いわば暗黒時代なので、思い出したくもないというのが正直なところです。まあ、多かれ少なかれ人は苦闘しているものなので、明るく楽しいだけの時間であった方も逆に少ないのかと思います。本書は小学五年生の女の子、美乃里(みのり)の一夏の想い出を綴った物語です。これがまた甘美さと苦味が融和した時空間であって、十二年が経過して、彼女が大人になって語られる後日談においても、あえかに思い出される胸の疼くような日々なのです。そんな美しい過去の時間がある人生は幸いです。なんて羨んでいても仕方ないわけですが、物語の慰めとは、自分が経験していないことの擬似体験を得られることやも知れず、心当たりのない輝かしい日々を共有できる歓びもあります。人間、自分を不幸だとか、ついていないとか思いがちなものですが、それは程度の差であって、心の姿勢次第なのかも知れません。豊かな感受性があれば世界は開かれていたのかも知れないのですよね。美乃里は背が高すぎる自分を可愛らしくないと思っています。男子には高瀬という名字を高背と書き換えられて、からかわれることもあります。とはいえ、それ以外は深刻な悩みもない、ごく普通の家庭のごく普通の子です。そんな子にも胸を痛めるような出来事が訪れます。鋭敏な感受性が捉えた世界の揺らぎをビビットに感じられる美しい物語です。
一学期も終わろうとしていたある日、気づかなければ良かったことに気づいてしまった美乃里(みのり)は、打ちのめされたような気持ちで夏休みを迎えることになります。美乃里は、同じクラスのスポーツ万能少年の須賀君と、幼稚園の頃からの仲良しである茜と一緒に交換ノートをやっていました。密かに好意を抱いている須賀君と二人で交換ノートをするのは恥ずかしかったので、茜を誘ったという経緯があるのですが、美乃里の観察眼は、茜の須賀君を見つめる視線と、須賀君の茜を見つめる視線の先に結ばれているものに気づいてしまったのです。読み返してみれば、交換ノートの文面のそこかしこに二人の気持ちが重なるところがあったのだ、と気づいてしまったら、もうお終いです。おそらく二人はお互いの気持ちにはっきりと気づいてはいない。さて、美乃里としてはどう振舞ったら良いのか。クラスで男子を入れても二番目に背が高い自分は、茜のよう可愛らしい女の子ではないことを美乃里は自覚しています。須賀君のサッカーの試合の応援に行きなよと茜の背中を押す美乃里の胸中は、実に切ないところです。そんな失意のまま夏休みを迎えようとしていた美乃里は、終業式の日、クラスで飼育していたセキセインコをうっかり逃してしまいます。そのインコを捕まえてくれたのが、以前にも一度、会ったことがあった、実(みのり)という自分と同じ名前の少年でした。同じ学校の子ではなく、遠くに住んでいるという実。背が小さく下級生のようにも見える、ちょっと不思議なこの少年と、美乃里はこの夏休み、一緒に時間を過ごすことになります。それは小学五年生のこの夏だけの束の間の邂逅です。ほんの一瞬だけの胸の高鳴りや切ない気持ちが、花火やスイカなど夏の風景と一緒に繋ぎとめられていきます。屈託のない笑顔を美乃里に向けてくれた、いつか見た少年とのかけがえのない夏。回想の中で輝く、儚くも美しい日々がここに刻まれています。
家の水道が壊れたために銭湯に行くことなった美乃里は、おばあさんと一緒に銭湯に来ていた、あの時、インコを捕まえてくれた少年と再会します。親しく言葉を交わすようになった二人は、銭湯の壁に描かれた絵の秘密に気づき、男湯と女湯、両方の壁絵を見たいと思います。銭湯の風呂掃除を手伝うことを、気難しい銭湯の主人である、木島さんというおじいさんに申し出ます。最初はすげなく断られたものの、知り合いらしい実のおばあさんの口利きで、なんとか手伝わせてもらうことになります。偏屈で頑固な木島さんに叱られながら、毎日、掃除を手伝う二人に、木島さんも料理やスイカを振舞ってくれたりと、次第に打ち解けていきます。心優しい実との風呂掃除の日々は、失恋の痛手を抱えた美乃里にとって大切なものになっていきます。素直で優しい言葉で美乃里を癒やしてくれた実は、しかしながら、やがて姿を消してしまいます。彼にもまた複雑な事情があったことを、後に美乃里も知ることになります。二人で一緒に見た花火の美しさ。交わしたささやかな会話。この夏のことを忘れないと告げる、実の残した手紙。そんな温かく切ない時間が繋ぎとめられた美しい物語です。物語を通じて美乃里の目の前に現れる認知症のおばあさんたちの存在が、人の記憶は失われてしまうのだという悲しさを暗示しています。それでも、ボケてしまったおばあさんが少女時代に戻ってふるまうことが、美乃里に抱かせる想いも印象的です。少女時代を彩る夏の思い出。悲しい物語ではないのです。とても温かい物語なのですが、あらかじめお別れの予感を孕んでいる、なんとも言えない切なさに耽溺させられます。長新太さんの装画と挿絵も味わい深いです。