至高聖所(アバトーン)

出 版 社: 福武書店

著     者: 松村栄子

発 行 年: 1992年02月

至高聖所(アバトーン)  紹介と感想>

主人公はアポロ11号の月面着陸の年に生まれたということなので、1969年生まれ。そんな彼女が大学に入学した年となると1987年頃です。軽佻浮薄な時代です。これはバブル前期の女子大生のキャンパスライフといいながら、理系で鉱物研究会に所属する子の実に地味な学生生活を描いた物語です。それは学校の所在地のせいもあります。辺鄙な場所を拓いて造られた学園都市は何もないところで、夜遊びできるわけでもなく、良い意味で学業に集中できる環境です。60年代から70年代初頭の大学生を描く物語のように学生運動や政治的な関心はなく、ほどほどに学業に打ち込み、サークル活動をしたり、交友関係もあれば、恋愛関係もあります。とはいえ、いずれも温度は低いものです。人同士の関係性も希薄になっていった時代です。自分も同時代を知る人間なので、そこを踏まえて、この物語を読んでいるのですが、もはや熱い友情をたぎらせることよりも、ほど良い距離感を保つことの方がクールだった時代のはずです。だからこそ、なけなしの共感の可能性が尊かったり、人が繋がることをより肯定的に捉えられる時代でもあったような気もしますが、本書はその搦め手からの気づきが秀逸だったか(これも実に弱い電波なのですが)。現代(2024年)のヤングアダルト層にとっての友人関係とのベースの違いもあり、どう受け取られるのだろうかと考えています。共生というテーマはむしろ現代的なのかも知れませんが、ネットも含めて、人とのつながり方は変遷しており、正解はない中で模索していくものなのだろうと思います。とはいえ、十代の痛みは形は違えど普遍性があります。まだ大海を知らないがゆえの通過的なものかも知れませんが、誰しもが懐かしく、痛々しく思い出すものではないかと思います。

優秀な生徒ながら大学への進学希望を沙月(さつき)が抱いていなかったのは、姉が音大に進学することによる家の経済的事情に配慮したためです。ところが、姉は音大に不合格になり、本人の希望であっけなく就職してしまったため、沙月が大学に進むという道が開けました。美しい姉を崇拝する妹の沙月としては、複雑な気持ちではあったものの、先生が決めてくれた大学の受験に合格して親元を離れ、新興の学園都市での大学生活は沙月に新しい世界を見せてくれます。学校の寮は二人部屋で、学校が決めた沙月のペアである真穂は、いくつもの活動に参加している積極的で行動的な子でした。物言いもやや辛辣で、自分勝手な印象もあり、波長が合わないことを沙月は感じています。それでも同部屋のよしみで、多くの会話を交わす中で、真穂が早くに実の両親を亡くしている事情を知ったり、演劇活動を続ける彼女が書いた戯曲(ギリシアを舞台に至高聖所(アバトーン)で語り合われる対話劇)から、その心中を伺うことになります。姉への複雑な気持ちを抱えたまま、淡々と日々を過ごしている沙月も、わずかながら真穂が発している淋しさのパルスを感じとっていきます。大学生活という特別な場所と時間を生きる十代が、言外に希求している救済が見え隠れします。

自分も全国から学生が集まってくる大学に通っていました。元々、学校の近隣に住んでいて、進学しても生活スタイルに大きな変化はなく、わりと淡々としていたのですが、地方から一人で上京してきた子たちのアクティブさには目を見張るものがあり、ちょっと圧倒されていました。学生運動などの政治的なものからは縁遠くなった時代です。懸命になることはダサくて、熱量が低いまま、さりげなくこなすことの方がクールだったムードだったかと思います。そんな中で、大学生もまたそれぞれ自分の生き方を模索して悩みながらも、個の時代でもあり、互いを慮り歩み寄ることは難しかったなと回想します。まだネットもそれほど普及していない時代で、直の人間関係しかない頃。表立って発する言葉と裏腹に、その心が発している微量の電波を感じとりながら、共感するでもなく、それでも共生していけるつながりのベースがそこに生まれていたのかも知れません。主人公の沙月もまた複雑で、自分が志望するわけでもなく先生が決めてくれた学校に進学し、そこそこの熱量で勉強やサークル活動の鉱物研究に関わりつつ、ちゃんと恋人もいて、という一見して充実した毎日です。恵まれた環境にいる若者であり、同時代を生きていた同じ芥川賞受賞作の『苦役列車』の主人公とは対照的です。ただ、この主人公の空虚さや拠り所のなさもまたどこか苦役めいてはいます。沙月も含めて家族から愛された姉と、その姉の代わりに進学したと思っている自分の、自己肯定感の低さのようなものから解放されないまま逡巡している姿は、どうにも痛々しいものです。(宗教にはまっているとはいえ)よくできた達観した人である恋人よりも、偏った人であるルームメイトに気持ちを惹かれ、共感の可能性を見出していくあたりも、なんともバランスが悪いところですが、人が調和する形は、それぞれであり、許容されるものかとも思います。