若松一中グリークラブ

若松一中グリークラブ

気になるあの子はトップテノール

出 版 社: 岩崎書店

著     者: 神戸遥真

発 行 年: 2025年01月

若松一中グリークラブ 紹介と感想>

女装男子を好きになった主人公の少年は、同時に同級生の女子からも告白されており、彼が最後に二人のどちらを選ぶかというところに、現代(2025年)の児童文学としての良識や予定調和が見出せます。結果的には、彼にとって人間として魅力的だった方が選ばれます。どちらが選ばれたにせよ、人を好きになることに性別は関係ない、という大胆な結論になるのですが、人を好きになる上で性別を全く意識しないところまで時代は進んでいないので(と未来からは検証されるのでしょう)、2025年的に違和感のない落ち着きどころになったような気がします。いえ、あくまでも個人の感想です。神戸遙真さん作品は『ぼくのまつり縫い』(シリーズ)にしても、『笹森くんのスカート』にしても、女子の領域と考えられていたものに男子がアプローチしています。そこでジェンダーを超越させようとか、そもそもジェンダーとは、という強いテーマ性があるわけではなく、人目を気にせず、好きなものを好きと主張してもかまわないのだと、世の中に抑圧されがちな子どもたちの背中を押すスピリットが描かれています。女子の趣味とされるものを男子が好む、ということが物語の題材となる。剣道女子の物語が頻出していることとはやや趣が違いますが、男なのに、も、女だてらに、も既存のジェンダー意識が前提です。この前提が流動的で揺らいでいるので、読まれ方自体もまたどんどんと変わっていくのでしょう。読者の感想も評価も一過的なものです。ところで、本書には立原道造の詩が登場します。立原道造の文学史上の位置付けや、かつての青春小説に登場する立原道造の詩の象徴性みたいなものを現代の中学生読者は知る由もないと思います。おそらく、何も先入観がないところで登場する立原道造です。『残酷な天使のテーゼ』とも横並びです。30年前のアニソンの歌詞も90年前の詩も、分け隔てなくフラット捉えられるというのは理想だなと思います。性別を意識せずに、人を好きになることもまたそうなのかも知れません。いや、どうなのか。

私立中学に入学した二宮陽翔(ハルト)は、どこの部活に入るかを考えていました。父親が元オリンピック選手の著名人であるために、自ずと運動系での期待を受けてしまうのですが、自分の才能や志向性について、陽翔は考えるところがありました。小学校でやっていたバスケを続けるか、父親と同じ陸上をはじめてみるか。ちがう自分になってみたいという漠然とした思いもありました。そんな折、同じ新入生で別のクラスの渡瀬歩美(アユミ)と陽翔は出逢います。スカートの制服がよく似合う可愛らしい容姿をした歩美のことを陽翔は気になりはじめます。歩美が何故か合唱部への入部を断られ、自分で合唱サークルを作るという行動につきあうことになった陽翔。女声合唱部に男子である歩美では入れなかった、という真相を知るに及び陽翔は驚きます。女子の制服を着ているのは可愛い格好が好きなだけで、性自認が違うわけではなく、第一人称も「おれ」である歩美。それでも陽翔は、行動をともにする中で、性別に関わらず、歩美に好意を抱いている自分に気付きます。さて、女声合唱部に入れなかった歩美は、有志を集めて、男声合唱のサークルを結成します。陽翔もこれにつきあうことになり、メンバー集めにも奔走します。幼なじみで、陽翔のファンを自認する、会長こと翼(つばさ)や、自分の吃音を気にしている慎太(しんた)、ピアノではコンクールに出る腕前の聖也(せいや)など個性的なメンバーが集まり、少人数ながらグリークラブと名付けたサークルの活動は充実していきます。歩美の祖母がいる高齢者施設での慰問公演の成功に気を良くし、さらに大きなステージである地元のフェスに参加する目前、歩美の声変わりが始まり、高い声が出にくくなってしまいます。編成を変え、この危機をチームワークで乗り切ろうとするグリークラブの試みは上手くいくのか。仲間たちと声を合わせハーモニーを生み出す中で、歌が苦手で人前で歌うことを恥ずかしいと思っていた陽翔の気持ちもまた、音楽の歓びに満たされていきます。

合唱団やバンドにはあまり良い記憶がありません。自分はやったことがないですが、吹奏楽団や管弦楽団も、人と一緒に音楽を創り出すことには、気持ちを合わせる難しさがあるのだろうと思います。音楽観の違いというよりは、多くの人が集まるところソリが合わないこともまた起きがちなものです。合唱も、つい合唱団の暗黒面ばかり思い出してしまい、辟易してしまいます。なので、本書の明るさやか陰りのなさには救われました。音を合わせることは一人ではできません。ハーモニーが生まれた時の高揚感は何ものにも変え難いものです。音楽の歓びと、仲間たちとの交歓が手放しに描かれるこの物語は幸福や希望の陽光があります。陽翔も父親に対する微妙なコンプレックスを抱いていますが、人から期待されて育ち、また幼なじみの翼のように、心から自分を応援してくれる友人がいて、さらには容姿も優れていて女子人気もある屈折したところのない素直な少年です。そんな彼だから自分が歌うことや合唱の歓びに目覚めて夢中になっていくこともストレートに受け入れていくし、女装男子と理解した上で、歩美に好意を抱いていくあたりも実にストレートなのです。そこがストレートなものとして表現されているところが凄いのです。中学生男子は斜に構えがちなものです。それはプライドや保身や含羞もあり、素直になれないからです。ただ斜に構えてもひとつも良いことはない、というのは自分の経験則です。本書の良さは陽翔の良い意味での、こだわりのなさです。ただ女装男子を好きになっていくあたりに、そこはもう少しこだわった方が良いのでは、と危うさを感じてしまうのは、自分のリベラルさが足りないところか。まあ、あえて、こだわらないようにすべきです。この、あえて、が無くなると物語自体が成立しないような気もしますが、変わりゆくジェンダー観の過渡的な状況が繋ぎ止められた2025年の作品であり、今のリアルタイム読書の感想も、将来、頭が古かったなあと思い起こすのかと思います。