春のオルガン

出 版 社: 徳間書店

著     者: 湯本香樹実

発 行 年: 1995年02月

春のオルガン  紹介と感想>

成長痛とは、骨の成長に筋肉の発育が追いつかないために生じる痛みだそうです。子どもの成長期のアンバランスさを象徴したような症状ですが、これは「心と身体」の関係にも、「自己認識と周囲の目」の関係にも見出せるギャップの痛みのような気もします。どうもしっくりとこない。本書は、思春期の不安定でもやもやとした気持ちを的確にとらえて、物語の中で感じさせてくれる秀逸な作品です。こうしたギスギスの時間の心の状態は、あまり思い出したくもないものですね。しかし、湯本作品の硬質な雰囲気と巧みな物語作りは、じわじわと間合いをつめながら核心を捉えさせる周到さがあり、その視線の鋭さにざっくりと心をえぐられてしまうのです。胸を射抜く一行の鮮烈さ。だからこそ、僅かに感じられる潤いの部分が緩衝材となって、このダークで尖った物語のトゲの痛みを和らげてくれます。関節がきしんでいた頃の痛み。誰もが覚えのある成長の通過儀礼なのかも知れませんが、そこに少しでも油を差すことができるのなら、と思います。なにが潤滑油となって、成長期の心の歯車を滑らかにまわすことができるようになるのか。誰かの言葉が、ゆっくりと浸透して患部の痛みを和らげる薬となるのか。外に出て誰かと触れ合うにしても、人に近寄るにはまずトゲをしまわなければ。ハリネズミが社交術を体得するには、それなりの「気づき」がなければならず、そのためには「痛みを孕んだ事件」が必要なのかも知れません。

私立中学の受験に失敗して、この春から公立中学に通うことになったトモミ。小学校の卒業式を終えて、宙ぶらりんの状態でいるのは、春休みだからだけでもないようです。ネジがゆるんでしまった時計、そのふり子のように、ゆっくり動きを止めてしまった心。そして、変わってしまった自分自身。大好きだったおばあちゃんが病気に苦しんでいる末期の姿を見て、「もう死んでしまったほうがいい」と思った自分。以前の自分なら、そんなふうに思わなかったのに。自分が怪物になってしまった夢を見る。こんなことを考えるようになってしまった自分の正体を、皆に気づかれてしまうことが怖い。あのチカンは私の胸が大きくなってきたことを見抜いていた。翻訳家のおとうさんは仕事にかこつけて家に帰ってこなくなってしまった。おばあちゃんは死んでしまって、おじいちゃんは無駄なガラクタいじりばかりをしている。おかあさんは無愛想になり、家の境界線の問題で隣家の悪口ばかり。無邪気で突拍子もない行動ばかりしている弟の子どもじみた態度にも辟易する。お母さんに生々しく「女」を感じてしまい、自分の中の女も拒絶したくなる。バラバラの家族と行く先の知れない自分。こんな自分は、一体、どうしたらいいんだろう・・・。

バラバラになりそうな家を再生するために、おじいちゃんはガラクタを修理し続ける。弟と一緒に出会ったノラネコにご飯を配るネコおばさんは、どうしてそんなことを続けているのだろう。時間をかけて、ゆっくりとトモミは、そこにメッセージを見出していきます。自分の中の怪物と向き合うことの意味。ある事件を通してトモミは、「意味のないもの」など、ひとつしてなかったのだと気がつきます。ノラ猫も、ガラクタも、自分の憎しみさえも。人の存在は何かの意味をもっている。そして自分自身もまた。すこしずつ、ていねいに。人に近づいてみよう。一速とびに近寄ることはできない。私の話をしよう。人の話を聞こう。猫と仲良くなったみたいに、人間ともちょっとづつ近づいていこう。突然の大団円を迎える物語の終焉などはなく、それでも、かすかにいくつかのコマが動いた結末がここにはあります。トモミの心のごくわずかな変化、それこそがこの物語が語ろうとしてきたこと。うちに帰りたい。はじめから、うちにいるのにね。でも、それには、なかなか気がつかないもの。はじめの一歩は小さくてもいい。そろそろと手さぐりで進めばいい。最後にたどりつくのはスタートした場所かも知れない。堂々巡りの思惑を経て、ふりだしに戻る。そのとき目にうつるのは、スタート地点にいる大嫌いだった自分自身。その残像を、ようやく愛せるようになるものかも知れません。