出 版 社: 理論社 著 者: 加藤幸子 発 行 年: 1999年05月 |
< 茉莉花の日々 紹介と感想 >
園茉莉花と書いて、そのまつりか、と読みます。そんな宝塚歌劇団のスターみたいな名前の子はどんな女の子なんだろうと注目を集めてしまいますが、彼女はごくごく普通の子です。背は低く、色黒で、メガネをかけた平凡なタイプ。あきらかに名前に自分がつりあわない。そこで彼女は、自分のことを、まつり、と呼んでもらうことにしていました。本書は、まつりの、高校一年生から卒業までの日々を短いエピソードでつないだ物語です。たとえば文化祭の出しものとしてクラスで劇をやるとしても、役者ではなく自然と裏方を選んでしまう。目立ちたくないし、実際、目立つこともない。かといって、拗ねているわけでも、わざとらしくふるまっているわけでもありません。ごく普通のまつりの高校生活は、低温度で過ぎていきます。家もまあ裕福だし、家族の仲も平穏で、学校には仲の良い友だちもいる。そんなに一緒懸命になるわけではないけれど、音楽クラブでそこそこ楽しんでいる。この焦りや葛藤のなさ。ごく自然体で過ごしているのです。ただ心には「侵入お断り」の看板を下げたように、あまり深く人と関わることもない。どうやら親友は何か悩みを持っているようだけれど、積極的には斟酌しようとするわけでもない。それでも友だちとの信頼関係はあって、互いを支えにしています。そんな距離感が大切な時代。90年代を生きる普通の女の子の普通の日常を描く作品です。冷静な視線が捉える世界は穏やかで不思議な心地よさがあります。
とはいえ、なんにもドラマがないわけではないのです。誰にでも(そうとも限りませんが)心を揺るがすような出来事が忍び寄ってくるのが思春期というもの。隣の席に座っている男子、ミヤギが授業中ノートに絵を描いていることが、なんとなく気になっていた、まつり。そんなミヤギから、ある日、水族館に誘われます。これって、デートの申込みなのだろうか。さすがのまつりだって、気持ちが揺れることはあります。やがて一緒にキャンプに行ったり、お互いの家を訪ねあったり、つきあい方は淡々としたものでしたが、好きだという気持ちを確かめあえるようになります。いつの間にか、ミヤギがいることが自分の居場所のようになってしまった、まつり。でも、絵を描くことに夢中のミヤギのそばで、ただぼんやりとしているだけの自分を思うと、募ってくる不安もあります。そんな折、まつりは、ミヤギが他の女の子と一緒に絵を描いている姿を見てしまいます。そこには絵を描くもの同士の、入り込めない共感の世界がありました。まつりが耳にピアスの穴を空けようと思ったのもミヤギの存在があったからです。茶髪でピアスをつけたミヤギのことを、自分の両親が訝しむことが、冷静なまつりの気持をもイラつかせます。そんな反抗期が、まつりにもきたのです。それなのにミヤギはいなくなってしまう。その喪失感と、自分が入り込めない世界があることへの失望感に、まつりは苛まれます。取り乱すこともないまま、気持ちを沈めていく、そんな彼女の心象が淡々と語られ続けるあたりが中盤のヤマです。ごく普通の子の、ごく普通の失恋。静かに傷ついていく気持ちの描写には、大げさなところのない物語ゆえに、じっくりと沁みわたってくるものがあります。
三年間という時間。一瞬の出来事で、人はすごく落ち込むような目に遭うこともあります。ただ、そこから立ち直るのは、一瞬というわけにはいきません。いくら思春期の立ち直りが早いと言っても、スイッチを切り替えるようには変われないものです。それでも、折った足がやがて治癒するように、骨はつながり、傷もふさがります。時間の経過は色々な出来事を運んできてくれます。新しい出会いや、心を震わされるようなイベントもあります。のんびりとしたまつりなりに、進路のことを考えるようにもなるし、夢中になれるものも見つけていきます。日常を楽しみ、穏やかに過ごしていく時間こそが大切なもので、そんな日々に人間は養われている。三年間という、ゆっくりとした時間の流れを感じとれる本作品。児童文学の老舗である理論社からの刊行ですが、加藤幸子さんは児童文学プロパーではなく、芥川賞も受賞した一般小説の作家さんです。本作の他にも『蜂蜜の家』などのYA作品も新鮮で、児童文学に新風を吹き込んでいます。伊藤たかみさん、大島万寿美さん、角田光代さんなど、一般小説作家の児童文学への参入も二十一世紀には頻繁になってきます。そうした「越境」もまた、児童文学の多様性を担保するものとなっています。