超・ハーモニー

出 版 社: 講談社

著     者: 魚住直子

発 行 年: 1997年07月

超・ハーモニー  紹介と感想>

時が経てば、たいていの問題は問題でなくなるだろうとたかを括っていました。なかでも人の心の垣根は取り払われるだろうと。差別や偏見や偏狭も解消されて、世界はよりリベラルになっていくものと思っていたのです。実際は、人は歳をとると頑なになって、新しい価値観を受け入れられなくなるものです。社会は進化し、個人は退行するので、溝は深まります。そんな不調和がまだ世の中には散見されます。この作品は現在(2022年)から四半世紀前に書かれたものです。LGBTに対する社会的な「態度」は今とは随分と違っていました。たしかに「良識ある人がとるべき正しいあり方」は確実に変わってきたと思います。眉を顰めることなど、今や許されません。とはいえ、頭ではわかっていても、まだ意識的に意識を変えようとしている段階であり、心の底から「理解」されるまでには時間がかかるだろうとも思うのです。色眼鏡は健在です。多様性など認めたくない人もいます。「世間体を気にするばかりで、子どもの気持ちに歩み寄れない親」というストックキャラクターたちも、時代遅れと思いきや、まだまだ根強い存在なのかと思います。四半世紀前に子どもだった世代が親となっていても、結局は、そうリベラルになりえなかったのではないか。つまりは四半世紀前のこの物語の感覚は、未だに現役感があって、世の中そんなに変わっていないよな、と嘆じてしまうのです。自分が子どもの頃に反発した、わかっていない頑なな大人に自分もなっているのやも知れず、もう一度、子ども心を思い出すべきだと痛感します。ということで、この物語が訴えるところは、今もって有効です。あと四半世紀は大丈夫だと思います。それもまた残念なことです。

受験に勝ち抜き、念願の有名中学に合格した響(ひびき)。これで人生も上々になるはずが、次第に憂鬱になっていったのは、周囲が余りにも優秀な子たちばかりだったからです。小学校時代は優等生だった自分が、いつ間にか劣等生になっている。家に帰ってすぐに勉強しても、追いつくのがやっと。沈んだ気持ちでいる響を、母親は自慢の息子として誇らしげに友だちに紹介します。そんなスノッブさに苦々しい気持ちを抱えた響の前に、七年前に家を出た兄がふらりと現れます。いえ、それなりの覚悟を持って兄の祐一は帰ってきたのです。高校生の時、黙って家を出た祐一は、「女の人の格好をして働く」お店に勤めていました。長く髪を伸ばし、化粧をした兄のことを響は、やはり変な男の人だとしか思えません。父親は息子を蔑み、無視し、母親も戸惑いながら、その場を取り繕うように一方的に話をするだけ。両親は祐一に正面から向き合ってくれません。世間体や見栄ばかりの両親には、響もまた苛立ちを覚えています。それは両親の期待に応えられる自分でなくなってしまったからなのか。成績のことで鬱屈していることもあり、響は楽しく学校生活を送れてはいません。その苛立ちは、同級生の斜視で太った少年、太に親しげにされることでも高まります。太を侮り、馬鹿にした態度をとり続けたことで、響はついに太の怒りを買ってしまいます。兄の祐一の、理解されないながらも両親に認めてもらいたいという渇望を知り、響もまた口に出せなかった自分の本当の気持ちに向き合い始めます。成績が下がったことを親になじられても、親の価値観から否定されても堂々と自分を貫く。太との関係性を、なんとかして取り戻そうとする響の胸に兆したものに、未来への希望が感じられます。音楽のハーモニーと人と人の心の調和が重なりあう様子をオーバーラップしたタイトルも秀逸です。

誰かとの気まずくなった関係を、ちゃんと修復しようとアクションを起こすのは勇気がいることです。そんな修羅場を体験するぐらいなら、一生、関わらなくも良いと思うぐらいです。嫌なことに立ち向かわず、逃げても良い。そんな姿勢にも、大分、世の中は寛容になったと思います。児童文学においても、無理解な親と無理して和解せず、物別れになっても構わないという結末を迎える物語が登場しています。毒になる親を併せ呑む必要はないのです。友だちとの関係もそうですね。四半世紀前に比べると、ネットの発達などによって、コミュニケーションは拡がっており、ひとつの関係を失っても、新たなコミュニティに自分を置くことも容易かも知れません。だからこそ、この物語の、気まずさを越えて、正面から人と向き合い、心を通じさせようとする姿勢には圧倒されるのです。越えるべきハードルは高いのです。人に嫌な顔をされるのは嫌なものです。文句をつけられるぐらいなら、余計な波風は立てない方が良い。会いたくないって人とは会わなくもいいはずです。とはいえ、それでは人生がシュリンクしてしまいます。自分が傷つけてしまった人に謝りたい。やはり、人とはわかりあいたいと思うものかと思います。ここは四半世紀たっても変わらないし、この後、四半世紀ぐらいは保たれる感覚かも知れませんね。