出 版 社: 光文社 著 者: 野中ともそ 発 行 年: 2023年02月 |
< 遠い空の下、僕らはおそるおそる声を出す 紹介と感想>
2020年の最初のコロナ禍を描く物語が、国内児童文学では、大分、出揃ってきました。アワードで高く評価された作品もあります。あの特別な時間を児童文学として繫ぎとめる意味を大いに感じさせる作品群です。コロナ禍が少し沈静化した現在(2023年)から、あの時期の狂騒を考えると、当時の社会の対応はやや冷静さを欠き、人間の愚かさを随分と露呈したものだったなと思います。いやそれだけの災禍ではあったのです。不謹慎な言い方になるかも知れませんが、実は、未知の感染症への対応の正解が見えない中での試行錯誤の一大イベントに、自分もまた社会の一員として参加できたような、不思議な一体感がありました。今のところ感染を免れており、亡くなった方のご遺族や後遺症に苦しまれる方に比べると当事者意識が足りないところではあるのですが、あの時間に、何かしらの意味を見出したいという気持ちもあるのかもしれません。果たして、学校や子どもたちをめぐる環境はどうだったか。そして世界同時発生のパンデミックは、世界中の人たちの心を共感に向かわせるものがあったのではないか。そこには恐怖だけではなく、友愛や博愛も生まれたのではないかというなけなしの期待があります。ということで、海外作品でコロナ禍のティーンを描くYA作品が翻訳刊行されることを心待ちにしていたのですが、その前に、本書のようなコロナ禍に海外に住む日本人少年の物語が登場しました。しかも、野中ともそさんの作品です。一般書寄りの作家さんでありながらも、初期作品の『カチューシャ』以降、児童文学フィールドでも放たれる、そのYA感覚の清新さに心を奪われ続けています。そのグローバルな視点と繊細なメンタル描写は健在であり、さらに研ぎ澄まされています。読み応えありの一冊です。
ニューヨークで飲食店を開店するという夢を抱く両親とともに、中学卒業と同時にマンハッタンのダウンタウンに引っ越してきた少年、一葦(いちい)。彼が通うロウアー・イースト・サイドにある公立高校はヒスパニック系や黒人が過半数。そんな中で唯一の日本人として過ごす彼は、スポーツも目立つことも得意じゃない、結局、日本での生活と同じイケていないカーストの住人です。それでも、大好きなマーベルのコミックの話が通じる仲間ができます。韓国系アメリカ人の、じゃこ。ハイチ系のドミニカ人のバンパ。ダンコ虫三兄弟だと自虐的に言いながらも軽口を叩きあえる友だちができたことで、リード(葦)こと一葦はアメリカでの生活に馴染んでいきます。そんな三人の仲間に加わったのが、行動的で見た目も良い、アイリッシュ系でネイティブアメリカンの血を引く、くじらです。学校では目立つ「あちら側」の世界にいるはずの、くじらが三人と親しくなったのも、彼がマーベルの大ファンであるという共通点からです。顔の広いくじらは三人に新しい世界を見せてくれます。そして、引っ込み思案の少年たちが思いもよらないようなことを言い出しては驚かせるのです。それぞれをあだ名で呼ぼうというのも彼の発案でした。バンドをやろうというくじらの提案に、最初は戸惑っていた三人でしたが、次第の乗り気になっていきます。それがどうしたわけかアカペラグループを結成することになったのは、思わぬきっかけとバンパの経済的事情もありました。人種も境遇も違うけれど、心を通じ合わせられる友だちを得て、一葦の世界は広がっていきます。それでも時折、心に去来するのは、逃げるように去ることになった長崎の中学校での日々と、かつて親しかった、すぐりのことです。美しい声で歌を唄う合唱部員で、容姿も愛らしい少女、すぐり。彼女がマーベルのコミックを読み耽る一葦に声をかけたことから、二人は次第に親しくつきあうようになります。しかし、女子に不器用な応対しかできない一葦は、すぐりが迎えた窮状に、まったくもって気を利かせることができず、彼女を傷つけ、そのことで学校での立場をなくしてしまったのです。今は疎遠になってしまった、すぐりが、かつてニューヨークに行きたいと言っていたことは、今も一葦の胸に灯っています。さて、電車内で見知らぬ人に露骨な人種的な差別を受けて慄く一葦は、さらにコロナ禍の広がりによって、アジア人へのヘイトクライムが激しくなる状況に戸惑います。人から向けられる蔑みのために、人は傷つき、自尊心を失ってしまう。コロナ禍の行動制限の中でも、友愛をもって連帯し、悪意ある差別に打ち勝とうとする子どもたち。そこには理想だけではなく、苦い現実を踏まえて、強く逞しく成長していく姿があります。
主人公の一葦の、でくのぼうで気がまわらない不器用さといい、ヒロインのすぐりのちょっとした驕りや傲岸の棘といい、その若さの不遜さが鮮烈です。言葉が足らず、態度でもあらわすことができず、お互いを傷つけあったまま疎遠になるパターンのひそかで地味な恋愛模様にもグッときます。そして、二人の失われた関係が修復される希望がここにはあるのです。それが歌を通じて、というあたりも素敵です。まだまだ至らないところは大いにあるけれど、真摯で優しく、真面目な子たちの物語です。それは一葦がニューヨークで親しくなった、じゃこやパンパ、くじらたちも同じで、国籍や人種を越えて共通する豊かな資質を感じます。調子に乗ったり、拗ねてみたり、浮き足立ったり、踊らされたり、ふざけすぎたり、融通が利かなかったり、若さの愚かさを多分に持ちながらも、より良く人が生きられる世界を求めている。そんな子どもたちがワールドワイドに繋がっていける現代の可能性が描かれます。一方で、人を見下し、ヘイトを撒き散らす人たちもいます。そうした人たちを対岸にいる存在だと思うのではなく、学校内のカーストや人をキャラ付けして分けて考える自分の心にもある差別と照らして考えていける、若さの余白が眩しいのです。自らを顧みられない厚顔で独善的な中高年になってしまう前に、大いに傷いて痛みを知り、タフでしなやかな感性を身につけていくべきですね。若いって大変だけれど、いいなあと思える、そんな青春がここにあります。巻末に本書に登場する楽曲のプレイリストがSpotifyのQRコードで掲載されています(ちなみに、じゃこ、というあだ名はジャコ・パストリアスからとられたものです。随分と久しぶりに聴きました)。サブスクのプレイリストを友だちにプレゼントするという場面を児童文学作品でも見かけるようになった昨今です。日本とアメリカ、場所を隔てた同士がSNSで一瞬にして繋がって、過去のわだかまりを越えられることも現代ならではです。疎遠になった人と再会すること自体がかつてはドラマであったのに、今はいつでもそれが可能なのです。ただ、声をかけることのハードルは高く、勇気が必要です。現代のテクノロジーが、子どもたちの関係性に大いに作用していることを思うと、やはり時代とともに物語の焦点はシフトしていくのだと思いますね。