青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

出 版 社: KADOKAWA

著     者: 鴨志田一

発 行 年: 2014年04月

青春ブタ野郎はバニーガルール先輩の夢を見ない  紹介と感想>

見ないことによって人の存在を消してしまうことができるとしたら、無視には大きな効力があります。集団による特定の個人の無視は、イジメの定番のメニューになっているものかと思いますが、何かするわけではなく、何もしない、というあたりがイヤらしいところです。無視する側は罪悪感も少なく、ごく自然に、いじめを完遂できます。いや、そもそも無視には、大仰な悪気などないのかもしれません。いじめのような積極的悪意があるものではなくても、敬遠や無関心もまた同様の効果をもたらします。悪意の存在は曖昧であるにもかかわらず、それでも存在を消された側は傷つくのです。見て見ぬ振りは、いつの間にか、ごく自然に、見ないことになり、さらには見えなくなっていく。見えない側は、自分の存在を消されたと同じです。本書は、この当事者意識のない加害者たちが作り出した、場の空気に闘いを挑む高校生男子が主人公の物語です。ライトノベルの人気シリーズでアニメ化された作品ですが、ヤングアダルト小説としても、青春や思春期の光と影を鋭く照らし出していきます。さらにここには、思春期集団の閉塞感や淀んでしまいがちな関係性を突き破ろうとする意志があります。奇想天外な設定や、斜に構えたキャラクターなど、ケレン味は強いものの、人と人との関係性について、学校集団からドロップアウトした主人公が自分を顧みながら、あるべき姿を模索していくあたりは、実に健全で健康的な作品です。

高校二年生の男子、咲太(サクタ)が、公共図書館で同じ高校の一学年上の先輩である麻衣を見かけたことから、物語は始まります。有名子役から俳優となった麻衣は、今は活動を休止して、普通の高校生であるものの、知名度は全国レベルであり、その端麗な容姿も健在です。しかし、誰も麻衣がここにいることには気づいていない。それは元有名芸能人のプライベートに配慮しているわけではない、というのは、彼女が何故かバニーガール姿で図書館を徘徊していたからです。気づかないはずがない。彼女の姿が見えているのは、自分だけという事実に咲太は驚きます。どうして、他の人には麻衣先輩が見えないのか。これは自分の姿が人に見えるかどうかという麻衣の実験だったのだと咲太は後に知ります。特定の一部の地域で自分の姿が人に見えないようになっている謎の現象を麻衣は確かめようとしていたのです。これまで交流がなかった二人はこの出来事を通じて知り合いになります。これが都市伝説として囁かれる思春期症候群と呼ばれる怪現象のひとつであることを咲太が容易に信じたのは、彼自身もまた、思春期症候群の当事者だったからです。思春期の不安定な心情が、身体に怪異な影響を及ぼす思春期症候群。学校の同級生からネットいじめに遭い、教室で無視された妹の身体に痣や傷が浮かびあがり、それを見た咲太の胸にも大きな傷が実際に生じるという怪現象は、心の痛みが形となって表れたものでした。かつてその現象のために咲太が病院に運ばれた事実は、咲太自身が加害者として暴力事件を起こしたと歪曲して伝わり、高校の教室で同級生たちから距離を置かれています。噂を否定することもなく、特に人づきあいも求めない咲太は、こうした状況を淡々と受け入れていました。一方で、麻衣もまた学校内で自分と同じように、誰からも敬遠されているという事実を咲太は知ります。有名人だからといってチヤホヤされるなどということはなく、同級生同士が互いに牽制しあい、麻衣とは距離を置こうとして、結果的に無視されていたのです。咲太は学校で孤高を貫く麻衣に、軽くあしらわれながらも積極的にコミュニケーションをとり、やがて彼女が芸能人を辞めた真意を知ることにもなります。さて、麻衣の思春期症候群の発露である、見えない化現象は進んでいきます。見えないどころか、その存在自体も人の記憶から消えていくという深刻な状況に次第に進行していきます。その真因を掴んだ咲太は、好意を抱く麻衣がこの世界から失われないために、この世界を相手にたたかいを挑むのです。

心ない噂に傷つけられ、人と関係を結ぶことをあきらめ、数少ない友人を支えに淡々と生きていた咲太。周囲の空気を読むだけで、誰も換気しようとはしない世界で、自分の存在を消されている状況を甘んじて受け入れています。彼が自分のことなら受け入れられても、大切な人を守るためには行動を起こそうとするところが肝です。閉塞した状況をブレイクスルーするにはどうしたらいいか。そのソリューションが「青春ブタ野郎」になることという結末は、二十世紀初頭の時代感を現している逆説です。実際は、1980年代あたりから、熱い青春アクションは忌避されていたところです。互いを牽制し、衝突を避け、関心を寄せず、それでいて先入観で人を見下すような傾向は時代とともに進んでいったものかと思います。切り札としての直球の青春的アクションは、相当恥ずかしいものでありながらも、そんな無茶をしたいと思う気持ちもまた疼くものです。このあたり、青春そのものに価値観がそう変わっていない、というのは安心します。ベタな青春もあえて無視されていたようで、人の心が求めているものだということでしょうか。ところで、本書のタイトルは『アンドロイドは電子羊の夢を見る』からきているものかと思いますが、自分の記憶に照らすかぎり、内容的な関連性はないような気がします。記憶から消えているという可能性も考えてみるべきかも知れません。