出 版 社: 講談社 著 者: 魚住直子 発 行 年: 1996年06月 |
< 非・バランス 紹介と感想>
主人公は中学二年生の女の子、なのですが、名前は登場せず、「わたし」という一人称で進行する私小説形式です。これによって、心境小説として非常に胸に迫るところがあって、主人公の苦衷にシンクロすることになります。この十三歳は、ごく普通の明るく楽しい学校生活を送ることを自ら放棄していました。小学生の時に受けた、女子同士の陰湿ないじめの傷心で、人に心を開くことを止めてしまったのです。小学校卒業と同時に引っ越しをして、同じ小学校の子とは離れられたものの、進学した中学校では、友だちをつくらずクールに生きることを胸に誓っていました。教室の窓の外を見ているだけで、誰ともつきあわない。二年生になって、自ら選んだそんなスタイルに満足していたはずなのに、ふとしたきっかけで、その胸の痛みを打ち明ける言葉をもらしたことに、自分でも驚きます。心の中に潜んでいる恐れや不安は、時折、悪夢として彼女の夢の中に登場していました。クールを装いながらも、実はバランスがとれておらず、歪んだ心の隙間を、万引きのスリルで満たしていたのか。元はといえば、クラスで調子よく立ち回ろうとしたことがきっかけとなっていじめられていた悔しさは、その首謀者への憎しみとともに、自分の甘さへの憤りだったのかも知れません。もしも願いがかなうなら、自分はどうしたいのか。学校で耳にしたミドリノオバサンの都市伝説めいた噂は、近隣を徘徊する緑づくめの恰好をした怪人物に触れて、願いを告げればそれが叶うというものでした。偶然、ミドリノオバサンと遭遇した「わたし」の口から出た「タスケテ」という言葉。このバランスのとれない現状から、助けて欲しいと願っている自分に向き合った時、世界は少しだけ扉を開きます。彼女の再起の物語がここからはじまります。
ミドリノオバサンだと思ったのは、黄色いレインコートを着た若い女性でした。黄色を緑と見間違えたのは、ミドリノオバサンに出会うことを願っていたからなのか。サラさんというこの二十代後半の女性と主人公は、そんなきっかけから顔見知りとなり、交友を深めていくことになります。衣服メーカーに勤めているというサラさんは、自分で洋服をデザインし、縫製したものを着ていました。その作品の多くを見せてもらい、自分の表現方法を持って、仕事をし、自由に生きているように思えたこの女性に、主人公は憧れのような気持ちを抱きます。相変わらず、悪い夢は見ます。主人公の心には、ひっかかったまま消せないものがあるのです。小学校を卒業後、復讐として、いじめの首謀者に無言電話をかけ続けていた過去。そんな方法でわだかまる気持ちを抑えていた自分自身。しかし、もてあましていたアンバランスな心を変化させる事件が、やがて彼女には訪れます。それは、彼女自身が自らの心と決着をつけるために勇気を奮ったからです。いじめの首謀者との直接対決や、中学校でのいじめ事件に関わることで、心の中のモヤモヤとしたものをぶつけ、発散していく痛烈さ。学校生活の傍観者になって、何にも関わらないつもりだった自分が、当事者へと回帰する。その勇気をくれたはずのサラさんが、衣服メーカーでは商品管理や搬送の業務について、希望するデザイナーになれないまま八年間にわたって挫折と不満に苛まれていたことを、主人公は知ります。自分の無言電話のように、心に渦巻く怒りや不満のはけ口として、サラさんもまた、自分の心の暗黒面に捉われていたのです。重い手ごたえのある物語ですが、ここがまだスタート地点であり、再生の希望が残されていることに唸り続けてしまいます。このやるせなさを受け流すのではなく、正面から見つめて、自分自身に問いかけることができたら、未来は確実に変わるだろうと、そんな予見を読者に与えてくれる、実にハードな作品です。
この物語の持つ「内角ギリギリにボールを放り込んでくる」際どい感覚の講談社児童文学新人賞の受賞作の系譜としては『透きとおった糸をのばして』(2000年)や『アナザー修学旅行』(2010年)などの鋭く重い作品が浮かびます。共通するのは大人である若い女性たちの生きづらさを小中学生女子の主人公が垣間見ているところで、子どもの世界の難しさと闘っている主人公たちに、その先にある女子の未来に希望的観測を与えていないところが秀逸です。大人になっても生きづらさの呪縛からは逃れられない。ならば、今、生き方のスタンスを変えることができる子どもたちに未来を託そうとする励ましがここにあるような気もします。近年(これは2020年に書いている文章です)、この傾向が少し影を潜めてきて、人間関係の坩堝よりも、やや社会的なものにフォーカスが当てられることや、肉親との濃密な関係を描く方にシフトした感もあります。話題作を書かれるメインの書き手が、以前のような若い女性作家ではなく、年配の方が多くなってきたことも一因かもしれません。またSNSなどで社会との繋がり方が変わってきたこともあり、バーチャルとはいえ、生きる場所の半径が大きく拡がっていることも一因ではないかと(1996年なんてSNSどころか、携帯電話だってまだ普及していない時代です。かろうじてポケベル時代です)。学校の閉塞感は相変わらずのようですが、やろうと思えば、ごく簡単に世界に向けて発信できるツールがあり、交友の幅もどこまでも広げられます。一方、そうした世界の中で、何もできないし、うまく人と関われないという新しい孤独や失意もまたあります。児童文学やYA作品は主人公との同年代が子どもたちに常に寄り添い続けていますが、自ずと変遷があることを長いスパンを見ていると考えさせられます。