出 版 社: 講談社 著 者: 鳥美山貴子 発 行 年: 2022年09月 |
< 黒紙の魔術師と白銀の龍 紹介と感想>
『黒紙の魔術師と白銀の龍』というタイトルに、これは無国籍ファンタジーか中世ヨーロッパあたりを舞台にした物語なんだろうなと思っていたので、読み始めて、不意をつかれました。読後に考えてみても、講談社児童文学新人賞を受賞した際のタイトル『黒と白の対角線〜おりがみおとぎ草子〜』の方がやはりイメージに相応しいと思います。「魔術師」というのが西欧的で和風ファンタジーにはそぐわないし、この物語で不思議な能力を使う、哀しみを背負ったその人物を表すには相応しくないかと思ったのです(作中でも魔術師とは呼ばれてかなかったのでは)。あえて呼ぶなら「邪鬼」か「餓鬼」か。死してなお、飢えた男の心の切望と悲哀を表すには、どんな言葉を冠したら良かったか。おとぎ草子、もまたメタファーとして有効だったので、ここは残念なところです。ということで、まずは読み始めてギャップを感じたのですが、それはそれとして、この物語の世界観に入り込むと、それほど気になることではありません。現代の日本の小学生が遭遇する不思議な出来事。想起させられたのは龍つながりで藤江じゅんさんの『冬の龍』です。ファンタジックな出来事とリアルの人間同士の関係性の問題が並行して等価で語られるあたりも共通したところがあります。小学生が神秘的な巨大な敵と闘うという物語の常套は脈々と受け継がれています。ジュブナイルSFにもそうした物語はありますが、やはり『光車よ、まわれ!』や『ぼくの・稲荷山戦記』など児童文学系ファンタジーの系譜として、この物語も捉えられます。ということで、真っ直ぐで正しい児童文学ファンタジーであり、良い意味で現代的な線の細さを感じる、本書の魅力について考えてみたいと思います。
夏休みを前にして猛暑が続いていました。暑さを避けるため、町のはずれにある黒爪山(くろつめやま)の神社に行くことにした小学生男子である悠馬(ゆうま)たち。彼らも無邪気に虫とりに興じながら、黒爪山にこわいうわさがあることは知っていました。黒い霧がたちこめ、黒い湧き水が道路につたってくる。山深く入れば、神様の爪に引っ掛けられいなくなってしまう。ついぞ山へと入り込んでしまった悠馬は、そこで、一匹のとかげを捕まえます。ところが、生きていたはずのそれは、黒い紙を折り込んで作られた折り紙だったのです。不思議に思いながらも、その動かない折り紙を家に持ち帰った悠馬。しかし、夜中にその折り紙のとかげが動き出すところを見てしまった悠馬は恐怖を覚えます。翌日、悠馬はその折り紙のことを、同級生の男子、啓図(けいと)に相談します。いつも一人で折り紙を折っている、クラスから浮き上がっている啓図のことが気にかかっていたのは、悠馬にもまた人に知られないようにしていた好きなことがあったからです。啓図のおりがみ教室の先生に調べてもらうために、黒とかげの折り紙を預けたところ、先生はなぜか失踪し、その謎を突き止めるために二人は黒爪山の神社へと向かいます。かつて神社に納められていたという神様の黒い鉤爪と、ここに祀られている黒神様の話を元神主の老人から聞き、先生を助けるため、黒爪山へと登ることにした悠馬と啓図は、山深く隠された、あるものと出会います。そこで二人が知ったのは、恐ろしい災いをこの世に生み出そうとしている邪悪な存在のことだったのです。
ここから過去の宿怨が明らかになっていきます。数百年前に遡る悲痛な物語が明らかになり、正邪の戦いに子どもたちも巻き込まれていきます。一方で、フォーカスされているのは、彼らの学校生活での心の綾です。仲のいい友だちが沢山いるクラスの人気者ながらも、自分が本当に好きなことを友だちの前では口に出せない悠馬。以前に植物が好きなことを夢中になって話したことを揶揄われて以来、その気持ちを表に出さないようにしています。自分が好きなことであっても人前で言うべきことではない、という自己抑制は、少なからず傷つくことで学習していくものでしょう。人が興味を持たない話をして、反応が薄ければ、自ずと自制するようになる。無論、好きな気持ちをそれで封印することも、捨ててしまう必要もありません。ただ、子ども心は折れやすく、周囲の無理解によって、本来の自分を削がれていってしまうこともあるものです。自己肯定を貫くことは、無遠慮な子ども同士のパワーバランスの中では難しいものです。植物に興味がある男子も、折り紙に夢中な男子もマイノリティです。小学生のワイルドライフは、人に否定されがちです。横暴な子どもと繊細な子どもが共存しているのが学校の荒野ですが、その恩讐を越えて、手を携えることができないものか。悠馬と啓図は邪悪なものと闘おうと、和紙でできた白銀の龍を救けるため、折り紙で龍のウロコを折り続けます。二人では間に合わないのなら、誰かに協力を求め、助けてもらわなければなりません。そのためには理解してもらわなければならない。これはリアルな小学校の世界線では、とても勇気のいることでしょう。邪悪な災いと闘うという行為と同次元でこの繊細な人間関係克服が語られるあたりが新機軸であり、この児童文学ファンタジーの精華です。おおよそ子どもたちは、教室で心のバトルに明け暮れているものでしょうが、大人もまた人の思惑に翻弄されて、自分を抑えていたりします。ファンタジーに逃げたくもなりますが、そこもまたそんな世界となれば、克服するしかないんでしょうね。好きなものは好きと強い気持ちを持ち続けることの大切さを思います。