走りぬけて、風

出 版 社: 講談社

著     者: 伊沢由美子

発 行 年: 1990年06月


走りぬけて、風  紹介と感想 >
年に一度の商店街の福引で一等の高級サイクリンング車を引き当てるため、これまでの小学校生活をデータ収集に費やしてきた六年生のユウに、挑戦の夏が来ました。当たりくじが出るのには法則性があり、それを見据えて、くじを引くタイミングをうまく選べば、一等を引く可能性は高まります。数千分の一から数十分の一まで確率を上げることはできるけれど、あとは運次第。果たしてユウは、その研究の成果で、見事、自転車を引き当てることができるのでしょうか。なんて、一見、おバカな男子小学生がくだらないことに夢中になるユーモラスな物語と思いきや、本作はその見事な構成と盛り込まれた要素によって、爽やかな哀感を与えてくれる秀逸な作品となっています。それはこの物語が、沢山の「別れ」や「終わり」を孕んでおり、さらに再生の予感をも与えてくれるものだからでしょう。青少年読書感想文コンクールの課題図書にも選ばれた、多くの子どもたちの記憶に刻まれた、伊沢由美子さんの作品の中でも特に人気の高い一作です。

ユウの住むアパートは新井ビルという五階建ての建物で、以前はここにたくさんの家族が住んでいました。廊下や階段には子どもたちが集まって遊んでいたものでしたが、子どもたちが大きくなるにつれて、手狭になったアパートから引っ越しする家族が増えていきます。住人が減り、築二十五年が過ぎて設備も古くなっていたため、オーナーはついにこのビルの建て替えを決意しました。残された住民たちもここから出ていかなくてはなりません。同じアパートに住む友人たちの家庭の事情をユウは知っていました。ナオコの父は病気で亡くなっており、家族は大きな借金を抱え、ここより狭いアパートに越していきます。親友のトモヤは中古のマンションに引っ越すけれど、母親が「アル中」で、治療を受けていて、いつまたお酒に溺れてしまうかわからない不安定な状態です。最後まで残っていたユウの家も、ようやく父の会社の社宅に入ることが決まりました。この街を離れて転校するため、商店街の福引に挑戦するのもこれが最期。そして、この商店街自体にも終わりが近づいています。新しいスーパーが近くにできることで、商店街が存続することは難しいだろうと誰もが予想していました。心に寂しさと諦めを抱きながら、それでも福引を盛り上げようとする商店街の大人たちの姿をユウは見ます。商店街を支えてきた人たちの歴史もそこに重なっていきます。多くの人たちの想いと伴走するユウに、最期の福引を引く瞬間が次第に迫っていました。

トモヤの母親はアルコールに溺れて荒んでいき、ついには入院治療を施されることになります。本作では、その状態を「アル中」という言葉で表現しています。現代では「アルコール依存症」として病理だと考えられているものが、当時は「アルコール中毒」と呼ばれ、意志の弱さやだらしなさを想起させるものであったし、「アル中」は蔑称として使われることもありました。母親が「アル中」という設定は、この作品の翌年に刊行された『夏の庭』にも見られます。母親が「アル中」であることは、子どもにとって大きな負い目となります。代表委員長の選挙に立候補したトモヤの選挙ポスターには、「ぼくの母は、アル中です」と落書きがされていました。落書きがユウの字に良く似ていたせいで、ユウとトモヤの関係はぎくしゃくします。それは同級生が仕組んだいやがらせでしたが、こんなことで簡単に崩れてしまった自分たちの信頼関係の脆さに、ユウは悲しみを覚えます。子ども同士であっても、遠慮や配慮はあります。友人の母親が「アル中」であることは、適度な距離を保つべきデリケートな問題であり、ユウはトモヤの誤解を解くこともままならないのです。ここでユウが抱く心の揺れを描く筆致には惹かれるものがあります。本作は、地域経済の問題や、こうした難しい要素を絶妙な匙加減で取り入れて、小学生と大人、それぞれの心の機微を描く、完成度の高い作品となっています。時代はバブル期。ビルの建て替えやスーパーの進出などの好況期の要素も背景に見えています。アパートの住人たちの群像を描く『海のメダカたち』と共通するのは、現代では取沙汰されがちな社会的格差の問題が意識されておらず、誰もがこれからもっと豊かに暮らしていけるという経済成長の希望がベースにあるからかも知れません。そんな幸福ば時代だったか。同時代感覚では見えないものが、未来からの視点では浮き彫りになりますね。それにしても、なんとも見事に完成された作品だったか、という印象です。