ぼくの・稲荷山戦記

出 版 社: 講談社

著     者: たつみや章

発 行 年: 1992年07月

ぼくの・稲荷山戦記  紹介と感想>

謎の美青年、守山初彦。タバコ店を営むマモルの家を訪ねてきた、お正月でもないのに和服を着た変な青年を、祖母が「お使いさま」と呼び、最敬礼で出迎えいれたことに、中学一年生のマモルは戸惑います。マモルの家は代々、裏の稲荷神社を守ってきた巫女の家系で、祖母も神がかってお告げを下すこともあり、色々と変わった人が出入りをすることには慣れてはいました。とはいえ、突然訪ねてきたこの青年が二か月も下宿するという話がすぐに決まってしまったことに、やはり驚きます。母親を早くに亡くし、父親も遠洋漁業でずっと家を離れているため、ずっと祖母と二人暮らしだった生活に、一風変わった同居人ができたのです。考古学を学んでいる大学院生だというけれど、古風な雛人形のような目鼻立ちに長髪、言葉遣いも仕草も「レトロ」な守山さんに、マモルは興味を持ちます。守山さんもまた、マモルに手伝って欲しいことがあると打ち明けます。マモルの家の裏にある稲荷山を、海の見えるレジャーパークとして開発しようとする計画をくい止めて、山を守りたいのだと守山さんは言います。自然破壊という言葉を知ってはいるものの、いまひとつピンときていないマモル。しかも、守山さんには、山を守り、山におわす神さまを助けたいという意思があるようです。守山さんは「あのおかた」にマモルを引き会わせることで、その真意を理解させようとしますが、マモルは神さまの存在を信じてはいません。お母さんが死んだ時に神さまが助けてくれなかったのは、本当は神さまなど存在していないからだと思ってしまっていたのです。マモルのその「否念」の強さに、守山さんも人の姿に化していることができなくなり、ついにその正体を現します。その姿は真っ白いキツネ。マモルは守山さんが、お稲荷さんのお使いギツネなのだということを知るのです。守山さんに連れられて神さまと言葉を交わし、その存在を信じたマモルは、力を合わせて、この山を守るための戦いに身を投じることになります。人間社会の我欲に立ち向かい、自然への畏敬の気持ちを少年が育てていく物語。第32回講談社児童文学新人賞受賞作です。

神さまは天罰をもって人を戒める、と思いきや、神さまの使いである守山さんがとった戦法は「説得」です。神さまは優しく繊細な方であり、乱暴なやり方は好まれないし、お金をばら撒いて山を買い取るようなマネも快しとはしません。となると出来ることは、話し合い、だけです。レジャーランドの建設を進める企業、四井商事に対して、膝詰めで話をして、自然破壊を訴え、納得して引いてもらう。もちろん、そんなヤワなやり方が通用することはなく、守山さんとマモルは体良くあしらわれてしまいます。ここで二人は、四井商事の社内で、社長の次男である鴻沼秀二と知り合い、親しくなります。鴻沼は守山さんに興味を持ち、やがて神さまの存在を知ることになります。しかし、隠居同然の閑職にいる鴻沼は、社内ではなんら力も持っていません。こうして、次なる作戦が立案されます。神さまがかつて高貴な人間の姿であった頃の遺体は埋葬され、古墳として山に遺されていました。これを暴くことは苦渋の選択でしたが、史跡調査団の学術調査によって、第一級史跡の指定を取れれば、景勝保存地域として保存されます。ただ、それだけでは企業の経済活動を食い止めることはできないという鴻沼の提案で、マスコミを巻き込んで、市民運動としての四井商事への抵抗が始まります。「稲荷山の自然を守る会」の活動は署名運動から、座り込みの抗議活動へと発展していきます。こうした最中、守山さんは人間の心の「悪しき気」に疲弊し、次第に力を失い、やがてその命を落としてしまいます。守山さんの意思を受け継いで、マモルはこの戦いを続けます。早逝した母親の秘密を知り、自分が受け継いだものをあらためて見つめていくマモル。あくまでも人の力で、人の悪しき行いをただしていく。そこにはまた思慮が必要であり、考えを深めながら、マモルは戦い続けていくのです。

刊行当初に読んで以来だったので、四半世紀以上経っていることに驚かされます。バブル末期の当時と現代では、世相に違いがあります。環境保護に関しては大分、意識が変わってきていると思います(2020年の印象です)。SDGsなど、企業が率先して、そうした活動に取り組むことも多い昨今です。とはいえ、それもまた人間のスケールで考えたことであって、自然本位とは言い難いものかも知れません。結局は、人間の経済的な都合と折衝しながら、共生する道を探っているものです。この物語が求めている自然への畏怖と敬意は、人間の便宜を超えたものであり、その落としどころの難しさを思います。やはり、児童文学としては特殊な作品ですね。子どもの気持ちの揺らぎや心の成長を軸にした物語ではなく、児童文学としてはやや逸脱したものを感じます。精霊が、青年の姿で現れて少年と一緒に戦う物語、ということで、後に書かれた藤江じゅんさんの『冬の龍』を思い出していました。児童文学らしさ、ということではこちらの作品の方が濃厚です。一方で、テーマへの切り込み方は、本書の方が鮮烈で際立っています。人間の「否念」が精霊の存在を消していく、ということが本書では強く訴えられています。守山さんが『ピーターパン』について言及する場面もあるのですが、この概念は児童文学ファンタジーの中で発せられることの多い警鐘かと思います。人間が信じなくなってしまったために、その存在が消されていってしまうものを、なんとか繋ぎとめようとすること。どんなものにも思いを寄せることで、心が生まれる。そこに神が宿る。日本的な自然崇拝をファンタジーに取り入れた先駆的な作品だったかと思います。