100時間の夜

Honderd uur nacht.

出 版 社: フレーベル館

著     者: アンナ・ウォルツ

翻 訳 者: 野坂悦子

発 行 年: 2017年03月


100時間の夜  紹介と感想 >
見事な作品です。現代版カニグズバーグ、なんていうとなんですが、その「現代」を象徴する要素が重なりあってテーマと連関するあたりも良し。思春期の複雑な心理を描くYA作品としても実に良く整っていて、人と「繋がっている」状態の暗黒面と愛おしさを多角的に見せてくれることもまた良し、です。家出をして一人、オランダのアムステルダムからニューヨークにやってきた十四歳の女の子エミリア。そのドキドキした気持ちにいきなり引き寄せられてしまう冒頭から、うっかり騙されて、泊まるところさえなくなったピンチにハラハラさせられ、やがて出会う仲間たちとエミリアが少しずつ繋がっていく姿に、なんだか嬉しくなってしまう。そんな気持ちの振幅を楽しめる読書が待っています。ついていないことに、エミリアが滞在するニューヨークをハリケーンが襲い、火災や浸水、そして100時間にも及ぶ停電が引き起こされます。でも、この非常事態に直面したことは、本当についていなかったのか。エミリアと仲間たちは、それぞれ心に重荷を抱えていました。モデルのように美しい少年、ジムも、もうひとつさえない少年、セスや、妹でおしゃまなアビーも。少しずつ距離が縮まり、互いの心が近づいていきます。子どもたちが抱える簡単に割り切れない問題には、どんな回答が出されるのか。0か1か、そんなデジタルな判断ではない答えがきっとある。仲間たちと過ごした大切な時間。何十年経ってもきっと覚えているだろう、そんな輝ける十四歳の瞬間がつなぎとめられた物語です。

エミリアが家出した理由が、かなりハードです。自分が通う学校の校長先生でもある父親が引き起こしたスキャンダルは、世間を騒がせただけでなく、娘としても相当なショックを受けるものでした。ネットで拡散していく父親の醜聞。マスコミも騒ぎたてるようになり、エミリアは学校に行くことも難しい状態になっていきます。とはいえ、父親とちゃんと向かいあって、何故、そのようなことをしたのか、問いただすことも難しい。精神的に追い詰められたエミリアは、どこか遠い場所に逃げるしかなかったのです。ネットで安く住める場所を探して、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。潔癖症で、パニック障害から過呼吸の発作を起こすエミリアは、繊細なメンタルの子で、こんな冒険にはまったくの不向き。知りあいのいない大都会ニューヨークで、さらにハリケーンにも遭遇します。バクテリアを意識するあまり、人と手を触れることも、同じお皿の料理を食べることもできないエミリアは、ここで出会った仲間たちと、この非常事態下の毎日を一緒に過ごしていきます。ティーンには、それぞれの心の事情があり、人への羨望も嫉妬も、劣等感も自負もあります。自分の本当の気持ちもはかりかね、人との距離間がわからない。だから、直接、ぶつかり合いながら、手を繋いでいくしかない。デジタルではないアナログなコミュニケーションがここに輝き、復権します。誰かとリアルで触れあうことを、常時、ネットに繋がれている子どもたちが体感する。そんな意表を突いた物語の面白さもあり、ティーンの心の波動に触れることの面映さもあり、なんだか照れ臭いところも魅力的な一冊です。

生まれた時からインターネットがあって、「オンライン」でいることが当たり前の子どもたち。彼らがあえて「オフライン」を選択することには、大きな心理的な抵抗が生じます。空腹を満たさなければならないように「携帯電話を充電しなければならない」し、息を吐くように「ツィッターで呟かないわけにはいかない」のです。子どもたちはオンラインから自由になりたいと渇望しながらも、依存せざるを得ません。止めればいいのに、と単純に言えないのは、もはやそれが現代社会の空気になっているからです。むしろ法律で規制してくれたら止められるのに、なんて考えるあたり、もはや末期という気がします。ネットコミュニケーションが一般化する前には、こんな未来は思いもよらなかったことです。自分は90年代初頭のパソコン通信時代に「オンライン」になった時、広い世界に繋がれることに驚異と可能性を感じました。ずっとネットコミュニケーションの移り変わりを見てきましたが、人情も変わったし、人を抑圧するものに転じてしまったことも感慨深いものです。この物語では、ネットは悪い方にしか作用していません。父親の悪い噂が拡散することで居場所を失い、ニューヨークにまで逃げても、追いかけられ続ける。もはや、自分がネットを見ないようにする、だけでは、逃れられないのです。生まれながらにオンラインであるという拘束について考えさせられます。そこから世界とどう渡り合っていくのか。ふとオンラインになった頃の興奮を思い出してしまいましたが、ネットはもはや牧歌的な場所ではないんですよね。