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出 版 社: 岩波書店 著 者: サーシャ・スタニシチ 翻 訳 者: 若松宣子 発 行 年: 2025年07月 |
< ぼくたちのオオカミ 紹介と感想>
ヤングアダルト作品の主人公になるようなタイプの子は、概してサマーキャンプが苦手です。できれば行きたくないのです。そもそも同じ年頃の子どもたちと上手くやるということが不得手なのです。もしかするとヤングアダルト作品の読者もそんなタイプの人が多いかもしれません。本書の主人公もまたそうしたタイプです。みんなが楽しそうにしているところで、不機嫌そうな態度でいるということがハラスメントとされるようになった現代(2026年)としては、迷惑な存在だと認定されるのも仕方がない子です。でも、まあ、気持ちはわかります。自分もそんなタイプなので。表向きだけでも楽しそうにふるまう、なんてことができないから、余計、周囲と軋轢を生むことになります。概してこうした子は被害者意識の方が強くて、自分の加害については考えが及ばないところがあります。一方で、積極的な加害者タイプの子たちもキャンプに参加しています。人をイジメたり、傍若無人なふるまいで人を不快にさせる子たちは、しかしながら、彼らなりにキャンプを楽しんでいるのです。また、意外に仲間思いだったりもする。さて、現代的にはどちらが輪を乱す存在であるのか。そんなことを考えさせられるセンシティブな物語です。主人公は変わり者の少年です。しかし、主人公以上に変わり者の少年がそばにいるため、主人公はまだ迫害を逃れています。自分より浮き上がった存在に対して主人公は何を思うのか。我が道を行くことに理はあるのか。周囲と上手くやれない自分を持て余しつつ、それでも自分なりの正しさと、答えのでない自分への問いかけともに生きる。そんな少年の、理解者がいない荒野は、キャンプ地だけではないのですが、何かが心に兆す特別な場所ではあるようです。
主人公の名前はケミ。それは物語の最後に明らかになります。それが答えのない疑問へのひとつの回答ですが、まあ、それは置いておいて。夏休みの最初の一週間、同じクラスのみんなと一緒にキャンプに行くことになった少年は、他の子たちのようには森の中に行きたいとは決して思わないタイプ。それでもシングルマザーのお母さんは忙しいし、他に出かけるでもないとすれば、このキャンプに参加せざるを得ません。仕方なくここにきたという不機嫌な態度をしのばせながらです。ケミは、他の子たちが自然を楽しもうとしていることが理解できません。虫は苦手だし、まあ、周囲と上手くやることも苦手です。変わり者であるのですが、他の子どもたちからの攻撃を回避できているのは、もっと変わり者の少年、イェルクもこのキャンプに参加しているからです。耳が大きく、人をイライラさせたり、何をやってもいじられ、からかわれるイェルク。ケミはバンガローで同室になったイェルクととくに親しくしようと思うこともないまま、その不思議な行動や言動に戸惑い続けます。とはいえ、自分の世界を持っているイェルクのことが次第に気になっていきます。いやいやながらキャンプ行事に参加するケミは疎外感や不安感を募らせています。近くにオオカミの気配を感じるのも、そんな心象の現れのようです。大人はただ楽しめばいいというのですが、つまらないジョークやからかいにもピリピリして楽しめないタイプのケミ。イェルクがいるおかげで自分は嫌がらせをされないものの、いつ自分そうした立場になりかもわからない。疎外され、酷い目にあうイェルクに親近感のような同情心らしきものも、やがてケミには芽生え始めます。キャンプのインストラクターたちの正論にはウンザリしながら、唯一、ぶっきらぼうな料理人の言葉だけが、ケミの心に届きます。イェルクはだれにも邪魔されるべきではない。異質で孤独な子どもたちが、自分の心中のオオカミと向き合う物語です。
サマーキャンプを楽しめない理由は、端的に言って、友だちがいないからです。ひとりキャンプも楽しいものかもしれませんが、大勢の中の中でひとりというのは疎外感の方が大きいでしょう。たいていの行事は友だちがいないと楽しくないという真理は、友だちいない派にとっては残酷であり、致命的です。自分もそうした一人なので、身に沁みる事実です。じゃあ、どうしろというのか。なぜ友だちがいないかといえば、なかなかうまく人と打ち解けられない性格だということもあるかと思いますが、気の合う人が少ないタイプのマイノリティなのだと言えないこともないかと。だったら積極的に人に働きかけて、仲良くするということが求められるものなのでしょうが、それができないし、できないところにあるものに何らかのサムシングを見出したいというのが、ヤングアダルト文学の妙味のような気もしています。友だちは多い方が良いという価値観が一般的かと思います。友だちといた方が楽しいということもそうでしょう。友だちいない派としては、必ずしもそんなこともないんですよ、と言いたいところですが、酸っぱい葡萄なのかどうか。ここもまた噛み締めるべきところです。本書の途中で、主人公が読者(この本を読んでいる人たち)に話しかける場面があります。これ、物語の外側に出てしまう行為で、驚かされるのですが、想定読者もまたそうした気持ちがわかる子どもたちなのだろうと思います。結局のところ、「みんな仲良く仲間になって友だちでいよう」の道徳観だけでは解決しないものがあって、そんな気持ちを持て余しながら生きる子どもたちにも、寄り添う物語がここにあるということなのだろうと思います。ともかく単純な構図には還元できないものですね。終章の終わりに、少年は自分たちは何者かを問いかけます。まだ何者でもない少年が自分の在り方について迷走する物語です。大人になったからといって答えが出るわけではないのですが、社会的な立場で物を言うようになったりはするもので、それもまた閉口なのです。いや、友だちはいた方が良いですよ。きっと。
