かはたれ

散在ガ池の河童猫

出 版 社: 福音館書店

著     者: 朽木祥

発 行 年: 2005年10月


かはたれ  紹介と感想 >
この物語の主人公、小学五年生の麻と同じ小学四年生の冬に母親を亡くした僕は、途方に暮れたまま次の春を迎えました。漠然とした寂しさと、時々、襲われる逃れようのない喪失感。とはいえ、感傷的になっている暇などはない。早く大きくなって、台所の上棚に置かれた炊飯器に手が届くようにならなければなどと、戸惑いながらも、新しい生活に適応することを考えていました。この頃の僕は、これ以上、家族がいなくならないようにと、毎晩、必死に祈っていたことを覚えています。生と死。人間は本質的に死を孕んだ存在でありながら、普段は目をそらしています。母親の死を契機に僕にはどうしても「死」ばかりが目につくようになって、暗いもの思いに沈んでいました。結局、人間は「死」の世界に帰るんだ。暗いフィルターを通して世界を見つめる。「死」にとらわれて「生」の輝きに気がつかない。もしあの当時の自分に会えたなら、この物語が教えてくれたことを、是非、話してみたい気がするのです。麻を羨ましく思うのは、彼女には、世界を美しくとらえるまなざしがあったということ。心を塞いで、もの思いに沈み、周囲を心配させながらも、彼女の心の目は健全でした。お母さんに教えてもらった、見えない本質を見つけることの大切さ。形象の美だけではなく、心象に結ばれるものを慈しむこと。蝋梅に、丹精した住職の苦労を見ること。春のあしおとを聞くこと。お母さんが麻に遺してくれたものは、なによりも素敵な宝物だったのです。 現実は優しいばかりではない姿を見せるものだけれど、リアルの中に美しいファンタジーを見出す目をもてるのなら、世界は驚きと輝きをもって、微笑んでくるのではないでしょうか。ところで、この物語には「河童」が登場します。あの河童は本当に存在したのかどうか。たとえ麻の心に結ばれた虚像であっても構わないのではないかと、物語をゆるがす邪念を、僕は抱いています。

麻のもとに現れた、一匹の小さな猫。首輪をしているから、どこかの家の飼い猫。八寸という名前。きっと迷い猫にちがいない。けれど、麻には、ふいにその猫の姿が別のものに見えてしまいます。猫だと思ったから、猫に見えているだけなのだろうか。目に見えないものを見ることが私にはできるのかな。麻は自分の気持ちに自信を持てなくなってきています。心が悲しいとき、見える世界は、本当のものなのか。一緒に見たり聞いたり感じたりする人の存在がなくなった麻には、その自信がゆらいでいます。混乱している自分の心に答えを見つけたい。麻はこの猫と一緒に暮していきながら、不思議な現象に出会います。そして、形象にとらわれず、本質を見極めることができるのか自分の心に問いかけていくのです。やがて物語は進み、この猫の正体が明らかになります。かはたれ時、いろいろな魔法がいちばん美しくなって解ける、儚い、はかない時間。誰かわからなかった人の姿がうかびあがり、今まで見えなかったものが見えてくる。その時、麻は自分の心が見たものを、信じることができるのでしょうか。不思議なことなど、なにひとつなかった。これは、麻の心の中におきた事件なのかも知れません。

なにかを美しいと思う心。さみしく、かなしい、凍てつくような景色にも、美しさはある。目に見える美しさ、そして、心に結ばれる美しさ。何故、美しく思うのだろう。自分の心に自信を失い、戸惑いながら自問自答を行う、ちいさな麻を愛おしく見守ってしまいます。誰かと、美しいと思う心を共有することができたのなら、美しいと言い交わすことができたのなら、それは確かなものになるのではないか。美しさや、感動したことを伝えられたら。心を開いて、手をつなぐことができたのなら。人の心の中の宝石を見つけ出し、内側にある大切なものを感じとる。亡くなったお母さんが教えてくれた大切なこと。そして、お父さんが伝えてくれた大切なこと。麻は、自分の心が感じていることを信じてみようと思います。美しい世界はいつも目の前にありながら、なにも見えていないこともある。世界認識の方法は、自分で見つけだしていかなくてはならない。そして、心に浮かんだ、どうしても伝えたくて伝えきれない、胸の中の歓びや驚きを、表現できたのなら。「私は、小さな、美しい河童に出会いました」そんな荒唐無稽な言葉でも、誰かとわかちあえたのなら、心の真実になるような気がするのです。美しい文章と言葉。情景と心象が溶け合い、心の中にだけある繊細な世界を現出させた、日本児童文学の新しい精華だと思います。児童文学各賞に輝いた傑作。ファンタジーであるからこそ、心のリアリティと理想を描くことはできる。麻と八寸は、互いの境遇を知ることのないまま、それでも心の手をつないでいきます。どこにも不思議なことなどないのです。この物語の美しさを見つけ出せる方に「真実」を語りたいと思います。