その扉をたたく音

出 版 社: 集英社

著     者: 瀬尾まいこ

発 行 年: 2021年02月

その扉をたたく音   紹介と感想>

働かざるもの食うべからず、という言葉にはいくつか解釈や原典とされるものがあるようです。働かないで怠けてばかりの者には食べる資格がない、というのが一般的な解釈ですが、自分が働かず、人の労働の上前を跳ねている資本家を批判したものであるという説も。不労所得があって、充分なお金が入ってくるなら、別に働かなくても良いのではないかという考えもあります。今の金利では難しいですが、利息で暮らせれば最高ですし、投資や運用が上手くいって、手を動かさずに収入を得られれば、これに越したことはないでしょう。とはいえ、お金があっても、働いていない人、は尊敬を得られないというのが、是非はともかく、現代の倫理観の正直なところかも知れません。本書の主人公の宮路青年は資産家の息子で、大学を出てからも就職せず、アルバイトもしないまま、親からの月20万の仕送りで暮らしています。贅沢をしなければ、充分な生活ができる金額であり、思う存分、自分のやりたいことに打ち込める環境にいます。高校生の頃に始めたバンド活動の延長で、今も音楽の研鑽を続けていますが、その演奏がお金になったことはありません。その状態に、別にお金があるのだからいいじゃない、と開き直れないのが本人もが囚われている良識の壁です。ボランディアで病院や老人ホームに演奏に行くのも心のバランスをとるためなのかも知れません。大昔の小説には資産家の息子で特に働くわけでもなく気ままに暮らしている、というような人物が、自省することもなく存在していましたが、現在(2022年)は、やはり後ろめたさを感じてしまうものなのでしょう。ベーシック・インカムが施行されたら、おそらく働き方そのものについての考え方も変わるでしょう。世間の当たり前や良識なんて変わっていくものです。しかし、これは旧弊を覆すような新しい考え方が閃く物語ではなく、至って良識的な半径の中で、主人公が正しい生き方を選択していく正しい物語です。 お坊ちゃんなりに傷ついてきた主人公には、この緩い生活を送ることの一分の理がありますが、その大甘な考えを軌道修正する方角に自ら向かっていきます。それがありきたりでツマラナイということではなく、その成長のプロセスには、やはり魅せられるものがありますね。本年(2022年)の青少年読書感想文コンクールの高校生の部の課題図書です。現代の高校生の視座から、この青年の不甲斐なさと再起はどう捉えられるのか。それもまた興味深いところです。

二十九歳の宮路青年は、ミュージシャンを目指している、というほどの強い気概もないまま、大学を出てからもずっと音楽を続けていました。たまに病院や老人ホームにギターの弾き語りの慰問に行く程度で、その演奏で食べていくことなどほど遠いものの、資産家の親からの仕送りがあるため、働く必要はなく、ただ作曲やギターの練習をしているだけの毎日を過ごしていました。老人介護やデイサービス施である、そよかぜ荘に演奏をしに行った際に、職員の渡部君が吹くサックスを聞き、その演奏の素晴らしさに宮路青年は惹き寄せられます。もう一度、あのサックスを聞きたいと、そよかぜ荘に出入りするようになった彼に、ここの入居者や通いのお年寄りたちは色々と用事を頼むようになります。なんで自分がと思いながらも、頼まれると断れず、ついお年寄りたちを歓ばせるために世話を焼いてしまう宮路青年。一方、サックスの名手である渡部君があまり乗り気ではないのに、宮路青年は一緒に演奏をしようと説き伏せます。そよかぜ荘のレクリエーションの出し物として、二人は、なんの曲を演奏するか考えます。お年寄りたちの好みもお構いなく、これまでただ自分の好きな曲を演奏してきた宮路青年も、ここでの交流の中から、少しずつ考えを改めはじめていました。そもそも自分はどうして音楽を続けているのか。過去を遡って、宮路青年は、自分が本当に求めていることの核心に近づいていきます。ヘラヘラとした無職青年が本気になり、目覚めていく。お年寄りたちとの交流は、自ずとタイムリミットが設定されているものです。三十歳を目前にして宮路青年に起きる化学変化に、やっとかよ、などと言わず、温かく見守ってもらいたい。そんな人への寛容な姿勢を読書も問われるところです。

児童文学ファンなら、この物語のアウトラインや構成要素から『ガッチャ!』を思い出される方も多いかも知れません。自動車事故を起こし、罰として老人ホームでの奉仕活動を命じられた音楽が趣味の高校生の少年が、元ジャズミュージシャンの偏屈な老人と音楽を通じて心を通わせていく物語です。大きな違いは主人公の年齢です。クセのある老人との交流から、自分の進むべき道を見出していくのが高校生と二十九歳の青年では、やはり大きな違いがあります。宮路青年にとっても高校生時代は大きな分岐点でした。家が金持ちということを知られて周囲から浮かないようにと自分を隠し続けてきた彼が、高校で音楽を通じて仲間を得てバンドを組み、文化祭に向けて練習した日々は今も彼を支えています。むしろその時間の充実感が強すぎたために、音楽を手放せず、次のターンにも進むことが出来ないという停滞状態を続けています。友人たちが社会人として成長して行くのに、自分一人だけずっと高校生時代から抜け出せていない。彼にとって大切だったのは、音楽よりも人との繋がりです。それはただ自分を認めてもらいたい、ということであったのかも知れません。そして、そんな彼のことをちゃんと見ていてくれる人がいたのです。尊大で、態度は良くないけれど、宮路青年が、お年寄りたちのことを考え、心配し、歓んでもらいたいという気持ちを持っていることは伝ってきます。このあたり彼のナチュラルな育ちの良さなのかも知れません。お大甘の坊ちゃんが、ようやく目覚める物語は、高校生の時に気づいておくべきだったことを遅ればせで体験したものです。まあ、人間、早く目覚めるに越したことはないですが、くすぶっている時間だって無駄ではなかったのだと、感想文を書く高校生たちが緩やかに考えてくれると良いなと思います。