出 版 社: 岩波書店 著 者: 吉野源三郎 発 行 年: 1982年11月 |
< 君たちはどう生きるか 紹介と感想 >
時代を越えたベストセラー。2011年8月には、またも新装でポプラ文庫から刊行されるそうで、75年前に書かれたものながら現役で力投を続けている驚くべき作品です(これ、その頃に書いた文章で、その後、2017年のコミック化で大ブームが起きました)。とはいえ、本書が「名作児童文学」なのかというと、その作品の味わいは、ちょっと微妙な感じがします。要は説教臭い。実際、説教が延々と数ページにも及ぶ教育小説なのです(この本は、もともと子ども向けの教養書シリーズであった『日本少国民文庫』の「倫理」部分のパートでした)。しかしそれは、頭ごなしに大人の考え方を押しつけるものではなく、少年が自ら思索し、探究していく心を養うための訓導です。昭和10年。軍国主義台頭前夜のギリギリ、リベラルだった昭和時代の教育の理想。少年が深く考え、哲学する。目の前にある世界の営みを、広大な視野で捉えていく。本編最後の「君たちはどう生きるか」の問いかけは、これまで主人公を見守ってきた、これからを生きる読者に向けられたメッセージです。二十数年ぶりの再読となりましたが、多少の発見もあり、またついぞ哲学的なものにカブレていく少年時代(というかプレ青年期)の青さや甘さも懐かしく思い出していました。
主人公の少年の名はコペル君。大学を出たばかりの若い叔父さんが、彼につけてくれたあだ名です。それはコペルニクスからとられた名前。中学一年生のコペル君は、ある時、自分が世の中の中心にいるのではなく、自分は世界のごく一部にすぎないことに気づいてしまいました。この心の地動説に目覚めた少年は、世の中の万物がどんな結び付きをしているのかを深く洞察していくようになります。とはいえ、普通の中学生である彼は、学校での交遊関係など、ごく凡庸な悩みにさいなまれているのも日常なのです。そんな彼の日々にアドバイスを与えてくれるのが、件の叔父さんです。コペル君の日記にびっしりと書き込まれる叔父さんの言葉がコペル君を叱咤激励し、思想的影響を与えていきます。この形式、何かに似ているなあ、と思ったのですけれど、アミーチスの『クオレ』ですね。父、母、姉、家族総出で少年の日記に脅迫めいた説教を書き綴っていくアレです。ただし、あの作品のように美しくはない、というのが本書のポイントです。叔父さんの説教は開明的で、旧時代の価値観を押しつけるものではない。修身的なものでも、ストイックに殉じる善や美でもない、真の知性の輝きを尊ぶものなのです。この後の時代の趨勢を考えると、やや複雑なものがありますが、戦中、戦後を越えて、現代にこの本が生きていることに、ちょっとした感慨を抱くところです。
コペル君はお父さんがいませんが、わりと裕福な家庭の子です。彼が通う中学の同級生たちも、それなりの資産家の子が多い。ところが、同級生の中には、貧しくて、家業を手伝うために、学校を休みがちの子もいます。コペル君は、豆腐屋の浦川君の家庭の事情を知ったことで、貧富の差ということを考えはじめます。こうしたコペル君の思索が物語の中心となるのですが、エピソード的には同時代の少年小説にニアリーな感じもあります。貧しい豆腐屋の少年と裕福な友人たちというと佐藤紅緑の代表的少年小説『ああ玉杯に花うけて』が思い出されます。中学校に行ける者、行けない者、ここでも貧富の差は歴然としており、そうした経済格差が前提となった世界で、それぞれの境遇の少年たちが、誇り高く胸を張る高潔で美しい物語が展開していきます。卑劣漢を許さず、正義感を昂ぶらせる少年たちの姿。悲憤慷慨してばかりのベタな展開であっても、これはこれで楽しい読み物なのです。とはいえ、なかなか現代には復活できないかな(と思わざるをえない)のは残念でもあり。果たして、リアルタイムで、どちらのタイプの小説が当時の少年たちにとって面白かったか、というのは興味深いところなのですけれどね。時代の位相を踏まえて、比較しながら読むと、色々と見えてくるものがあります。