西の魔女が死んだ

出 版 社: 楡出版

著     者: 梨木香歩

発 行 年: 1994年04月


西の魔女が死んだ  紹介と感想 >
自分に苦痛を与えるだけの場所でしかない中学校からのエスケープ。中学二年生になって間もなく、まいは不登校になるまで追いつめられていました。パパは単身赴任中。扱いにくい過敏な娘に手を焼くママは、どうしたら良いか考えあぐねます。そこで、ママはまいを自分の母親のもとにしばらく行かせることを思いつきます。英語教師として来日し、日本人男性と結婚した、まいのおばあちゃんは英国人でした。祖父が亡くなってからは一人で暮らしている祖母のもとで過ごすことになった、まい。流暢な日本語を話すこの大柄なおばあちゃんのことをまいは大好きで、ここでしばらく過ごせることを喜びます。学校の喧騒を離れ、まいはこの夏、穏やかだけれど賢明な祖母と自然の中で暮らし、植物を愛でながら、多くの話をします。女子グループの微妙な力関係の中でバランスをとることに辟易してしまった、まい。学校で自分のスタンスを決めきれないまま、脆くも居場所を失ってしまった彼女を、英国人のおばあちゃんはどのように癒し、教え、その目を開かせるのか。現代をより良く生きる道標となる、少女の小さな人間回復の物語です。

魔女であるということ。魔法を使えるわけではないものの、予知などの不思議な感覚を体得できる資質が自分たちの家系にはあるのだと、おばあちゃんはまいに教えてくれました。魔女としての力を身につけたいと思う、まいはどんな修行をすればいいのか。精神の鍛練が必要だと、おばあちゃんは言います。まずは早寝、早起き。大切なのは、自分でいつ寝て起きるのか、ちゃんと決めて計画通りに行動すること。おばあちゃんの教えは、すべてを自分の意志を持って決めていきなさい、ということでした。魔女のアンテナには色々なものが見えてしまうし、聞こえてきてしまいます。だから、自分で何を見聞きするかを決められなければならない。とはいえ、これはなかなか難しいことです。嫌なものはすぐに目にはいってきてしまいます。例えば、おばあちゃんの家の近所に住むゲンジさんというおじさん。色々と一人暮らしのおばあちゃんの世話を焼いてくれるそうなのですが、どうも、粗野で下卑た印象を、まいに与えるのです。そんなまいをおばあちゃんはたしなめます。大切なのは、先入観に踊らされず、理性的に判断すること。魔女は社会から排斥されながら生きてきた存在です。人よりもセンシティブな資質と付き合いながら、それに誇りを持って生きるためには、どんな心の姿勢でいるべきなのか。やがて、次のステージに羽ばたいていくべき、まいにおばあちゃんが与えてくれた力。強靭な理性や意志を持つこと。脆弱な子どもが、愛情をもって、けれど、甘やかされず、涵養されていく理想的な姿がここにあります。

知的水準が高く、教養にあふれ、品性が備わっている。そんなの鼻もちならないだけじゃないか、という気もします。いえいえ、高踏派、梨木香歩さんの世界は、ただお上品なだけではなく、いかに生きるべきかの示唆に富んだ力強さがあるのです。怠惰な日常にはびこる生活感の惰性や、生理的感覚や即物的な気持ち。そうしたものに支配されず、理性や知性に依って生きていくということ。これは偏見にさらされ、排斥されてきた魔女たち(繊細な神経を持った少数派)の自己防衛であり、理想の実践でもあります。豊かな感性と、健やかな知性を持ち、賢明に生きる。2000年代に登場する朽木祥さんにも通じる、開明的な意識が梨木香歩さんの作品にはあります。鋼のように強靭な理性や知性。しかし、それは教養や学識に裏打ちされたものに「ならざるをえない」ところもあります。やや否定的にそう書くのは、そうしたものはただのひけらかしと思われる弊もあるからです。粗野で下卑たものを象徴するゲンジさんに対して、まいの感覚的な判断を諌めるおばあちゃんの態度は立派ですが、やや知性的に優越した人間の驕りを感じさせるところがあります。驕りもまた美しい、などというのも悪しき文学趣味ですね。しかし、日常の生活感覚を積み上げて得られるものだけでは、意識レベルの飛躍は図れず、学による知性の鍛練、理性の開化も必要となります。やがて養われるより良く生きる知恵。物語に潜ませる「君たちはどう生きるか」の問いかけは、ここに復古するのです。そこにもまた、みなぎる児童文学のスピリットが感じられます。知性的な読者を刺激してやまない梨木香歩作品の魅力の原点がここにはあるのです。