ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日

When Zachary Beaver came to town.

出 版 社: 白水社

著     者: キンバリー・ウィリス・ホルト

翻 訳 者: 河野万里子

発 行 年: 2003年09月


ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日  紹介と感想 >
気が弱いだけなのに「優しい」だなんて勘違いしてもらえることがあります。本当は憶病なだけなのに、慎重で深慮があるように思われることも。優柔不断で意気地がないのも好意的に誤解してもらって、ナイーブ、だなんて言われたりもする。自分はそんないい人じゃないのに・・・。少し後ろめたく思ったりする。でもね、そうやって人から思われている自分が、意外と本当の自分なのかも知れない。トビーは「カッコいい子」じゃないけれど、「いい奴」だから、クラスの憧れの女の子からも好意を寄せてもらえたりします。だけど、まあ、恋愛の対象にはならない。彼女の小さな妹のおもりを頼まれるのも信頼されているからなんだけれど、複雑な気持ちになってしまう。なかなか思われたいようには思われない。男としては、やはりカッコよくありたいもの。だけど、いつも理想には届かなくて、ズッコケてばかり。それはきっと多くの大人にも身に覚えのある少年時代の懐かしい風景。精一杯なボーイズライフを、周囲の人たちが優しく温かい目で見守っていてくれる。だってトビーは、けっこういい奴なんだから。ラジオから流れてくるのはカーペンターズの『クロストウユー(遥かなる影)』。遠くベトナムからは戦争の砲火が聞こえてくる。そんな時代。この夏、テキサス州の田舎町で平穏に暮らしていた少年トビーに、その日常を揺るがす、いくつかの事件が起きます。思いがけない出会いと別れに揺れる、十三歳の夏。清新な気持ちを感じとらせてくれる本書は、近年のYA作品、屈指の名作です。

ザッカリー・ビーヴァーは世界一太った少年。嘘か本当か、そんな口上とともに、トレーラーに乗せられ、町々を移動しながら見せ物にさせられている十五歳の少年ザッカリーとトビーが出会ったのは、1971年の夏。300キロ近くもある少年ザッカリーは、芸をするでもなくただそこにいるだけで、娯楽が少ないこの田舎町ではセンセーショナルな出し物として好評を博しました。ところが、一緒に旅をしていた後見人の男性に、この町に置き去りにされ、このままでは施設に連れていかれてしまうというのです。ぶっきら棒な態度をとる巨大な少年に、最初はおじけづいていたトビーも、だんだんと言葉を交わせるようになり、彼の虚勢の裏に抱えているものを感じとっていきます。この夏、トビーもまた複雑な気持ちを抱えていました。カントリーの歌唱コンテストに出場するため都会に出かけた母親は、なぜかそのまま帰ってきません。社交的で陽気な性格の母親と、副業のミミズの繁殖にだけに熱心な父親には、いつの間にか温度差が生じていたのです。両親は、別れることになってしまいそうな気配。寡黙な父親の苦衷が少ない言葉の中からトビーにも伝わってくる。人の心の痛みや失意に気づき始める季節。この町で静かに暮らしている人たちも、それぞれ少しずつなにかに傷ついている。両親、友だち、元気を失っている人たちのことを思い、いたたまれなさで一杯になるトビー。ザッカリーのために、そして沈んだ気持ちから回復できない人たちのために、トビーは精一杯ジタバタします。そんな姿が意外とカッコいいということに、トビーが気づいていないところもまたこの作品の魅力なのです。

情景や人物の細やかな描写が、この田舎町で暮らす人たちの心情を豊かに感じ取らせてくれます。色々な過去や複雑な事情を抱えながら、人は立っているものですが、多くを語ることはありません。それでも、充分、伝わるものがある。事情は良くわからなくても、そこで一人で泣いている人を見守ることはできる。言葉はかけられなくても、そばによりそって、慰めることはできる。みんな黙っていても、静かにつながっている。人生に悲しみはつきものだけれど、悪いことばかりじゃない。トビーの言葉で語られる世界は、思いやりとあたたかさに満ちています。トビーがいい奴だから、この作品に登場する人たちも皆、愛おしく思えるのかも知れない。僕はこの作品に登場するトビーの親友の姉、ケイトがとても好きです。作中、ほとんど彼女の言葉を聞くことはないのですが、トビーの視線が捉えた彼女はとても魅力的です。地味で、ちょっと変わっているけれど、思いやりに溢れたキャラクターが浮かんできます。登場する人物や情景が、映像のように心の中に結ばれる。あの1971年のテキサス州の田舎町に、そして十三歳の少年の夏に、トリップできる見事な作品です。

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