ホーミニ・リッジ学校の奇跡!

The teacher’s funeral.

出 版 社: 東京創元社

著     者: リチャード・ペック

翻 訳 者: 斎藤倫子

発 行 年: 2008年04月


ホーミニ・リッジ学校の奇跡!  紹介と感想 >
「村の学校」のお話と言えばミス・リードの名作が思い出されるところですが、本書『ホーミニ・リッジ校の奇跡!』は、牧歌的感覚、破天荒さともに前書のプラス120%と言った味わいのある作品です。分別ある大人の視点で眺める穏やかな田園風景の中の子どもたちを描く物語ではなく、ここにはワイルドなエネルギーに満ちあふれた世界が展開しています。舞台は「村の学校」から更に50年前、20世紀初頭のインディアナ州の田舎の村で、しかも、あのリチャード・ペックが描くポスト・アーリー・アメリカンとなれば、どんな暴走がはじまってしまうのかは期待できるところでしょう。躾のためには鞭を惜しまず、なんて教育方針が信奉される田舎の村の学校。急死した厳格な女性教師の後を継ぐことになったのは、まだ高校も卒業していない十七歳の女の子、タンジー。資格を未取得の代理教師が、この村の学校を継続させるには、八人の生徒を集めて指導力を発揮し、教育長の諮問をパスしなければなりません。知識や教養などというものが、まだ重要視されていない時代と場所で、やんちゃで生意気な生徒たちをタンジーはどんな手腕で束ねていくのでしょうか。生徒の一人であり、タンジーの弟でもある少年ラッセルの回想で語られる、暢気な田舎の村の風俗と、学校での喧騒の日々。美しい田園風景だけじゃない、すぐに猟銃をぶっぱなしたがる人もいたりする、もう少し荒々しく土俗的な匂いのある村の生活。タンジーと生徒たちとの駆け引きや、子ども同士のバカバカしい意地の張り合いも楽しい。にぎやかで、大雑把で、ユーモラスで、ささやかにロマンの香る、そんな時代の物語。さて、来るべきホーミニ・リッジ校のささやかな「奇跡」を待ちながら、肩の力を抜いて楽しめる癒悦の読書をはじめましょう。

鋼鉄製の脱穀機、ケース・アジテーターを乗りこなし、小麦の収穫の喜びといつも一緒にありたい。そんなイカした農夫になりたいと思うラッセルの前に立ちふさがっている壁。それが「学校教育」です。十五歳でありながら、未だに八年生の卒業試験をパスしていないラッセル。八月が終わろうとする気配に憂鬱になってしまうのは、九月からは新学期が始まってしまうから。トウモロコシが穂を出し、トマトが実る、そんな季節の警告を感じはじめる挽夏には、にわかに気もちが塞がってきます。要は学校が嫌いなのです。それは村に暮らす他の少年たちとも同じ気持ち。ところが、そんな八月に、驚くべきニュースが飛び込んできました。担任のアート・マクバル先生が、突然、亡くなったという報せです。いつも厳しいマクバル先生に鞭打たれていた少年たちは快哉を叫び、たった一人の先生が亡くなったことで、学校が閉鎖されることも夢じゃない、と思ったのも束の間、新学期には、代理の先生がやってくることになろうとは。しかも、それが姉のタンジーだとはラッセルもびっくり。学校という名の牢獄は続く、さらに家にまで続くのです。新米教師タンジーの厳しい指導に耐えられなくなったラッセルは、家出を計画するも果たせず、いっそのこと、タンジーが結婚してくれたら職業婦人でいられなくなるぞ、なんて思いながらも、姉に言い寄る優男には、なんだか面白くないものを感じたりして。けっこう、少年の心は複雑なのです。ラッセルが、教育のもたらす成功と未来とともに、都会へとはばたくことになるのは、まだまだ先の話。いつも叱られてばかりの生徒たちが一丸となって立ちむかう教育長の試験に、果たしてタンジーはパスすることができるのでしょうか。当時の風俗を感じさせるたくさんの固有名詞に彩られ、この田舎町の物語は進んでいきます。正体不明の新聞投稿詩人、スウィート・シンガーの詩に乗せて、ずっと読んでいたいような、この古き良き時代の物語は続くのです。

先日、知遇をいただいている評論家の方が書かれた「不登校」をテーマにした児童文学作品についての論考を読んでいて、ちょっと感じ入るところがありました。学校に染まることができず、どうしても息苦しくなってしまう子どもたちが「不登校」という手段を取った際、近年の児童文学作品はどこに解決を見出してきたのか、という論点で書かれたものです。学校教育信奉派は、たとえ辛いことがあっても、がんばって教室に戻ろうね、ということを諭します。結局、「学校に戻る」ことが良しとされてしまう。しかし、これが最善の解決策なのだろうかという疑問が提起されています。学校で浮きまくってしまった『スター☆ガール』は、彼女自身でいるために、続編では、学校を離れてホームスクーリングを選択していました。それはまた賢明なことだと読者としては思います。息がつまって死んでしまう場所に、あえて子どもを送り込むことは「通過儀礼」にしかならないのに、どうしてそこに固執するのか。「学校」に戻らない方が幸せであった、という終わり方はないのか。なるほど、教育は必要かも知れないけれど、「学校」という場所の意味は、時代とともに変容してきているのではないかと思うのです。時に心に大きく傷をつけてしまったり、場合によっては、二度と立ち直れない心的影響を与えてしまう。無理に学校に通わせることよりも、人間らしく生きる方が大切だということを忘れてはならないでしょう。一方で、「学校の理想」というものも存在します。優れた教師や仲間との出会いの可能性を持った場所としての学校もまたある。本作品には「学校嫌い」の子どもたちが登場しますが、この混沌とした「原初形態」の学校の中で、彼らが送った学校生活は、不敵な新米教師タンジーの登場でどんなものに変わっていったのか。彼らの「アンチ学校」感覚も、とても牧歌的なもので、現代の「学校に行けない」子どもたちの姿とは距離があり、これもまた、ひとつのファンタジーのような気もします。本書は、ささやかな後日談とともに、あの村の学校のドタバタとした日々が、輝ける少年時代の記憶となり回想されていく素敵な作品です。個性的な教師のパーソナリティが勝利を収めることは、少なからずあるとは思いますが、そうした「組織的ではないもの」は、現代の学校では推奨されないものかも知れません。生徒同士の人間関係や、教師と生徒の関係もかなり複雑。きっと教師同士の人間関係の緊張や、生徒の親たちとの関係もまた難しいものがあるのでしょう。そうした学校の「苦い感じのするもの」を、全部、蹴っ飛ばし笑い飛ばすような、このいつか見た「学校生活」には、失われた理想が息づいている気もします。ちょっと現代の学校生活に閉塞感を感じている人に読んで欲しい、そんな作品ですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。