マスク越しのおはよう

出 版 社: 講談社

著     者: 山本悦子

発 行 年: 2022年09月

マスク越しのおはよう  紹介と感想>

同じ教室にいる子どもたち、それぞれを主人公にした連作短編で構成される群像劇スタイルの物語です。これまでにも、このスタイルでは多くの傑作が描かれてきました。教室で顔を合わせながらも、互いの胸の内を知らない同士が関わりあい、それぞれの主観による物語の中で、その気持ちが綴られていきます。全てを知る読者は、登場人物たちが気づいていないまま響いている、彼らの心の共鳴をより深く感じとることができます。一方で、本書の五人の主人公による五篇の物語を読むと、互いの事情が良くわからなくても、人は気持ちを寄せ合うことができるのだという希望を抱くことができます。ここには「コロナ禍」という環境による負荷が大きく影響を及ぼしています。2020年、新型コロナ感染拡大を警戒した最初の非常事態宣言が発出し、一時、学校が休校になった後、再開した学校が舞台です。そこでは、要マスク着用の非常時が続いています。その不自由な制約が、これまでの教室では見えにくかったものを、浮かび上がらせます。大人の世界でいえば、コロナ禍は経済的なデメリットは大きかったものの、在宅勤務や時短労働など働き方改革が一足飛びになされた効用もあり、功罪半ばするものがありました。コミュニケーションの量が減った分、質も高まったかどうか。ともかくも強制的に変革された世界で、新しい生活スタイルの中で人との新しい関わり方が模索されました。非常時に人が適応し、進化する可能性を見せられたような気がします。最初の物語で叫ばれた『世界は変わったんだ!』という台詞は非常に象徴的です。だから自分たちも、変わるべきだ、なのか。悪いことばかりではなく、人に多くの気づきを与え、少なからず生き方の軌道を変更させたコロナ禍です。ただ、この先に、子どもたちがより良い未来を築けるだろう予感を与えてくれる作品でした。多くの人が亡くなったことは残念であり取り返しがつきませんが、人は考えを深めて、未来につなげていくことができるはずです。コロナに着目されがちだとは思いますが、物語として見事さ、楽しさにも是非、注目して欲しい作品でもあります。

“最初に登場するのは、マスク歴三年の荒川千里子(ちりこ)です。小学四年生の終わりからマスク着用が日常になっていた千里子にとって、非常事態宣言の臨時休校明けで再開した学校で、全生徒がマスクをしている光景は感慨深いものでした。これまで自分一人だけがマスクをしていることで嫌な思いもしたこともありました。それでも手放せなかったマスク。中学一年生の終わりに友だちにマスクのことで傷つけられたことから、二年生になっても登校をためらっていた千里子。でも、このコロナ禍での全員マスク着用の状況が千里子の背中を押します。クラス替えをした教室には見知らぬマスク姿の生徒たちがいます。ヒョウ柄のマスクをつけた大柄で強面の女子、渡辺芹那(せりな)。フェイスシールドのお調子者の明るい男子、広田麦(むぎ)。黒目がちの瞳の大人っぽい雰囲気の女子、小柳沙織(さおり)。全員が転校生のようで、別の世界の別の学校にきたような不思議な感覚を千里子は抱きます。ところが、沙織が、他のクラスの女子に言いがかりをつけられている場面に千里子は遭遇してしまいます。不登校だったという沙織が、雰囲気を変えて登校してきたことで絡んでくる 女子たちに、この機会を得て、人は変わっても良いのだと千里子は怒りを爆発させます。千里子にもまたマスク依存になっていた訳がありますが、その想いは多くの生徒に知られることはありません。芹那や麦、沙織の物語が語られていく中で、それぞれの事情が明らかになり、千里子の抱いていた彼らへの印象がごく一面的なものだったことも読者は知ります。中学生たちそれぞれの心の裡や家庭事情。マスク一枚を用意することも難しい子もいます。自分の顔を隠したくない理由がある子もいます。感染予防を口うるさく注意する子にも、相応の事情があるのです。輻輳していく物語が奏でるハーモニーに、人が新しい世界で豊かな関係性を築いていく希望が描かれます。”

コロナがあろうとなかろうと、中学生時代は悩ましいものです。家庭の事情が複雑だったり、コンプレックスを抱いていることがあれば尚更です。ここにコロナという予想外の因子が加わったことで化学変化が生じます。行き詰まっていた状況が、少し動き始めます。それぞれの物語の仕掛けがまた面白いのです。小さな頃に別れた母親に会いたいと想い続けてきた少年、麦。コロナが流行ったことで、母親が心配して自分に会いに来てくれるのでないかと期待しています。その物語の展開は、近年の児童文学作品として、かなり際立ったものになっていきます。『世界が僕を笑っても』も主人公の少年が物語の最後に、別れた母親に会いに行って拍子抜けする展開を迎えますが、それ以上の驚きがあります。ただ、少年は失意をも乗り越えていけるのだと、希望もまた灯されています。コロナというテコによって、物語は大きな飛躍を遂げます。ピンチがチャンスであるとイージーに言えませんが、変わった世界で、自分もまた変われるのだと、そんな勇気を抱かされます。コロナ禍の子どもたちを描く物語が次第に登場し始めています。2020年の最初の非常事態宣言以降の時間域を描くものが主ですが、当時はご存知のように、感染者自体は後の数波に較べればごく些少でした。他の物語も、感染者が周囲にいないのに自粛生活を送らされている閉塞感や不合理への怒りが主題です。そんな時期だからこそ、本当に罹ったら一大事です。本書の最終話は、自分以外の家族全員がコロナに罹患した少女、美咲(みさき)の状況が描かれます。彼女が、もうこの町に住めないのではないか、と考えてしまうのも大げさではなかったと思います。ついに、ここまできましたね。今でこそ(2022年秋、第八波の入口と言われている現在)、感染者への風当たりは柔らかくなりましたが、当時は当事者責任が問われがちでした。自分も職場で最初に感染する人には絶対なりたくないなあと思っていました。そんな自分の狭量に直面させられたことも含めて、プラスに繋げられたらと想いますね。