ステイホーム

出 版 社: 偕成社

著     者: 木地雅映子

発 行 年: 2023年06月

ステイホーム 紹介と感想>

ステイホームという言葉に対して、微妙な距離感にある現在(2023年)です。もはやコロナ禍ではない、なんて戦後復興期のような勢いで、あの時代を過去のものにしようとしつつあるわけですが、なかったことにはできない特別な時間であったと思います。2020年の春から夏にかけての最初のコロナ禍を舞台に描かれた児童文学作品がいくつも刊行されています。後の時代に記録は残されていても、わからなくなってしまうのはリアルタイムの危機感や衝撃です。物語はその感覚を繋ぎとめています。新型コロナウィルスの世界的なパンデミックの当初は、ワクチンも治療薬も流布されておらず、また重篤な状態に陥りやすく、感染はもの凄く恐れられていました(まあ、こまめに手を洗ったものでした)。有名人のコロナ関連死も衝撃を与えました。致死率も低くない未知の感染症。これは人々を恐怖させる得体の知れないウィルスだったのです。不要不急の外出を控えて、家にいること。ステイホームの大号令のもと、飲食店は営業を控え、学校も休校となりました。世の中のイベントは軒並み中止。オリンピックだって延期されたのです。買い物さえ、週一回にまとめて行いましょうと言われていたほどです。そんな時間を子どもたちはどう過ごしたか。コロナ禍を描く児童文学も、初期は通常の学校生活を送れないことへの憤懣や煩悶が描かれましたが、次第に進化の兆しが見られます。本書では、感染に苦しんでいる人たちに後ろめたさを感じつつも、休校で学校に行かなくて良いことに、この状態がずっと続けば良いと思っている女の子が主人公です。実際、コロナ禍での環境の変化が、人生や生活を見つめ直す契機となった方は少なくないと思います。ステイホームの名の下に、平日、堂々と家にいる少女は、何を思ったか。あの時間にこんなことを考えていた子もいたかも知れないし、いてもいいのだと、そんなことを思わせる物語です。

小学五年生の、るるこが学年末になって、学校に行かなくなったのは、ステイホームのためです。世界的な新型コロナウィルスの蔓延に対応して、全国の学校で一斉休校が決められたのです。これは、るるこにとって、かなり嬉しい出来事でした。コロナで死んでいる人もいるし、不謹慎かなと思いつつ、それでも、頭の中でガッツポーズをするほどです。シングルマザーで、るるこを育てているお母さんは、会社のテレワークの準備が整わないため出社せざるを得ず、一人で、るるこを留守番させるわけにもいかないため、会社に連れて行くことにしましたが、これには、るるこは不満がありした。資料室で勉強や漫画を読むしかできないからです。しかも他の社員が連れてきた自分勝手な子どもたちに嫌な思いをさせられたりと、なんとか留守番にならないかと願っていました。そこに、お母さんの姉である聖子伯母さんが訪ねてきたことで、伯母さんと二人ならと、留守番すること可能となったのです。伯母さんはちょっと変わった人です。るるこの暮らす家はお母さんの実家でしたが、伯母さんは、今、緩和ケアを受けているお祖父さんに勘当されているワケありなのです。家具職人でバイタリティがあり、自由なスピリットを持った伯母さん。るるこは、自分が学校を好きではない、という気持ちを抱いていて、今の状況をラッキーと思っていることに後ろめたさを感じていましたが、伯母さんは「コロナのおかげ」で世界は変わると、るるこに宣言します。伯母さんから、人は心の中では何を思おうと自由なのだと、だからまずは突きつめて考えていくことを、るるこは勧められます。伯母さんと、るるこは古い家の片付けとリフォームを進めていきます。そんな中で、自分は何が好きで、何がきらいなのか、るるこははっきりと自覚していきます。あの程度の低い学校には行きたくないし、このまま公立中学に進学することだって嫌なのだと、るるこは考えます。周囲と折り合いをつけて生きてきた、けっして不登校児にはなれないタイプの、るるこに与えられたステイホームの時間が、彼女の生き方を変えていくことになるのです。

自分は他の子どもたちとは違う、と考えることは、マイノリティとしての不安と、そして恍惚があります。木地雅映子さんのデビュー作『氷の海のガレオン』は、そうした子どもたちの先鋭的な感覚が描かれた(群像新人賞受賞作でありながら)YA世界では伝説的な作品となっています。そこにある傲慢さや傲岸の棘は、若さと青さの痛さがあり、ヒリヒリ感に焦がされます。本書は児童文学作品であり、主人公は、一見、学校に馴染めず引け目を感じているように見えながらも、どこか、いわゆる普通の子たちと線をひき、見切っている傲慢さがあります。さらに、このステイホーム期間は、学校生活にスウィングできない彼女に、自分の資質を肯定する契機を与えました。伯母さんの薫陶もまたその傾向を増幅させます。「児童文学の良識」は、困難な学校生活に立ち向かい、相互に理解を深めることでの協調と融和を推奨します。一方で「児童文学の本質」は、真に人が自由に生きられることを求めます。人間疎外の学校に行くよりは不登校の方が良いはずですが、全面的に不登校礼賛とは言えないものです。そんな狭間にある「ステイホーム」が促したものに注目です。この物語、かなり「しょうもない人」たちが登場します。学校の先生も同級生たちもろくでもないし、母親の同僚もひどいし、本来は同情を寄せられるべき、その同僚が連れてきた子どもたちでさえダメなのです。そこに、良いところを探していく「見直し」モードが始まるかと思いきや、ただ見切ってしまうのが潔いところです。主人公はそうした人たちの世界とは関わらない道を選びます。立ち向かわずにかわすのです。しょうもないものに向き合って魂をすり減らさないという選択。非常に賢明であり、真を穿ち、児童文学の良識を蹴っ飛ばす痛快さがここにあります。まあ、まだ一抹の関心を残しているあたりが余韻を与えるところですが。さて、自分もまたコロナによって、働き方改革が大いになされたことは礼賛したいと思っています。ただそれはコロナ礼賛ではないのです。そうしたニュアンスが通じない人と、膝を詰めて論議をしたくない、と言ってしまえる勇気をもらえる物語です。いや、まあ社会的には上手くやりたいところですが(やはり日和ますね)。