境い目なしの世界

出 版 社: 理論社

著     者: 角野栄子

発 行 年: 2019年09月

境い目なしの世界  紹介と感想>

この物語には「ブルーバード」という商業施設が登場します。主人公である中学生の女の子、ヤエが迷いこむ怪しげな雰囲気のある建物です。そのロケーションや沿革などの説明から、そこが東京の中野にある「ブロードウエイ」をモデルにしたものだとわかります。ご存知の方はご存知かと思いますが、中野ブロードウエイは、なかなか魔窟感のある商業施設です。地下は食料品のスーパーで(この物語にも出てくるソフトクリームも有名ですね)、一階は衣料品や寝具、靴店など、わりと一般的なお店が並んでいますが、上層階はかなりマニアックな専門店が多く、階層によって表情が違うのが面白いところです。要はイオンモールや、ららぽーとにはない秘密めいたサムシングがあるのですが、さらに作家の想像力は、この場所に迷いこんだ中学生が不思議な世界を体験する物語を作り出します。長いエレベーターで上った先にある店舗街。そこは現実の世界との境い目がないままつながった異世界です。一方で、スマートフォンで繋がれるネットのコミュニティにもまた、現実と仮想の境い目がありません。ネットに便利な連絡ツール以上の意味を求めてしまうと、人の心の隙間にしのびよってくる危険なものがあります。人からの反応や承認を求めて、満たされない気持ちを暴走させてしまいがちなのがネットコミュニティの落とし穴です。画面に写し出されたわずかな言葉や、時には既読サインのみの表示は、想像の余地が大きすぎるために、心が迷走してしまう。正気から狂気に踏み出す、その境界もまたシームレスです。リアルとオンラインがシンクロし、人の心が異世界へとシフトしてしまうモダンホラー。「世にも奇妙な物語」というか、元をただせば「ミステリーゾーン(トワイライトゾーン)」のような、日常から不思議な世界にすべり落ちていく感覚がある物語です。自分としては、わりと馴染みのある場所が題材となって、思わぬ奇想の物語が創造されたことへの驚きもありました。

女子からは嫌われているけれど、可愛くて男子に人気があって、いつも誰かと付き合っていると噂のたえない同じクラスのミリ。ヤエが、そんなミリと学校外で偶然、出会ったのは、古い洋書の絵本だけを扱っているお店でした。同じ趣味があることに意気投合した二人でしたが、「学校じゃ、わたしヤエを無視するかもよ」と言うミリは、学校での付き合い方、を知らないと言うのです。これから連絡はラインでしようというミリに、スマホを持っていないヤエは戸惑いますが、後日、買ってもらえることになり、ラインを通じたミリとの交友が始まります。派手で目立つのに、リアルではあまりしゃべらないミリ。それでも彼女が口にする言葉には、やたらと男の子の名前が出てきます。ヤエがクラスで好意を持っていたコウも、ミリの親しい男子の一人。ヤエはコウともラインで繋がれないかとミリに頼みます。こうして、ミリとコウとラインでつながったヤエは、周囲が一気に明るくなったような気持ちを抱きます。メッセージのやりとりをするようになり、心が粟立ち、始終気持ちが落ち着かなくなっていくヤエ。顔を合わせても、あまり話をしないのに、ラインでは沢山の話をしてくれるミリ。話が終えられず、眠る時間も削ってしまうこともあります。やがてヤエはコウともラインでつながれるようになりますが、ミリやコウは次第に学校を休みがちになり、ラインでも連絡がつかなくなっていきます。一体、二人は自分が知らないところで何をしているのか。町で見かけたコウの後を追って、ヤエはブルーバードというビルに入っていきます。長いエレベーターに乗ったその先には、ショウウインドウに沢山のフィギュアを飾った小さな店舗がいくつも並んでいました。ヤエはそこで、何かのパスワードが秘密裡に取引されているのを、店員と客との会話から知ってしまいます。果たして、コウはここで何をしようとしていたのか。目を引く不思議なフィギュアや怪しげな店員たち。コウやミリが、ここではないどこかの世界へ入り込んでいることが、ヤエにはおぼろげにわかってきます。そういえば、ミリが付き合っていたと噂された男の子たちは、皆んななんらかの事情で学校から消えていくことをヤエは奇妙に思っていたのです。ここから先に行くと引き返せなくなりそうな予感と、自分が置いていかれるような焦燥感。その不安や葛藤。これは現実なのか、誰かに反応して欲しいと願うヤエの心の迷妄なのか。中学生の危うげなメンタルがうっかりと越えようとする境い目の向こう側にあるものに恐怖を覚えます。

モダンホラーのネット怪談でもあるのですが、ファンタジーとリアル、双方の恐ろしさがあります。偶然入った不思議な店の奥に飾られていた絵が気になって買って帰ったら、その絵の中の世界に自分が入り込んで出れなくなってしまった、なんていうのは昔ながらのファンタジーの常套です。この物語のベースにはそうした異世界への誘いがあります。一方で、舞台は古美術店や古本屋ではなくフィギュアショップだっったり、不思議な魔法の世界ではなく、実際に存在しそうなサイバースペースであるということも蟲惑的です。また物語の中で、コウに最近読んだ本を問われて、ヤエが、主人公がニューヨークで長時間の停電に遭遇する物語について説明する場面があります。これはタイトルが明示されていませんが『100時間の夜』(アンナ・ウオルツ)のはずです。これもまた、子どもたちがネットの呪縛から逃れられないことがテーマになっている物語です。ファンタジーではなく、リアリズムとしてネットへの依存や束縛の問題を語っている作品で、これもまた現代ならではのホラーを見せてくれます。この本について触れているあたりにも本歌とりの効果があって、この物語にはネットのリアルとファンタジーに境い目がないことの恐怖を痛感させられるのです。また中野ブロードウェイのフィギュアのショウケースや、中学生のラインでのつながりなどを、あの角野栄子さん(この当時84歳)の視座が捉えられて、こうした奇想のホラーを創造した、ということだけでも特筆すべき点はあるかと思います。そういえば、1990年代の初頭に自分がネットに初めてつながった際には(インターネットじゃなくて、まだパソコン通信ですよ、これまた)、書き込んだことにどう反応してもらえるのか凄く期待感があって、ズレたことを書いてスベってばかりいました。ネットリテラシーも確立していない時代でしたね。今は誰も読んでいないだろうし、気にも留めないだろうという前提で書いています(無論、反応があれば嬉しいですが)。そんなネットとの適切な距離感を学校で教えていたりする現代という異世界に自分がいることにも、ちょっと恐怖しています。