出 版 社: 講談社 著 者: 花里真希 発 行 年: 2020年07月 |
< あおいの世界 紹介と感想>
今朝、駅で「この市にもパートナーシップ制度の制定を」というプラカードを持った方を見かけました。LGBTの理解を促進するレインボーフラッグも掲げられています。ちょうどこの本を読み終えたところで、より考えさせられるものがありました。主人公の十一歳の少女である、あおいは父親の転勤で、カナダに住んでいます。隣家に暮らしている男性二人は同性婚をしているカップルです。カナダではパートナーシップ認定どころか、同性で結婚することが認められているのです。二人とも親切でとてもよくしてくれて、一人は日本で英語教師をしていたこともあり、日本語も堪能です。ところが、あおいの父親は、当初、子どもたちが二人に関わるのをいやがります。あおいのまだ小さな弟が影響を受けることを心配しているのです。その「男性を好きになることのハードルが低くなったら困る」という理由が秀逸です。男性を好きになることは普通じゃないし、それでは生きづらくなるだろうと父親は考えています。こうした偏見が、特定の人たちがより生きづらくなる世の中を作っている原因ですが、自分では気づいていません。この本の装画には、物語の登場人物たちが描かれているのですが、このカップルも裏表紙に載せられています。二人とも優しそうで、とくに片方の男性はフェミニンな印象を受けます。カナダ人のゲイの男性は総じてクマのような大男のはず、というのは僕の偏見ですが(『弟の夫』の刷り込みがありますね)、進んできたとはいえ、国内児童文学出版が許容するゲイの臨界点をここに考えさせられます。父親の偏見は、二人に危機を救ってもらったり、親しく付き合うことによって、緩和されていきます。子どもたちが海外生活をすることで、カルチャーギャップと出会う物語は国内児童文学の定番のひとつとなりましたが、ここにまで踏み込む作品が出てきたことは感慨深いところです。保守的な自分の市がパートナーシップ制度を入れるのは、まだ四半世紀はかかるだろうと思いますが、児童文学作品が与える影響が子どもたちの意識に働き、世の中を変えていく力になって欲しいものです。
自動車会社に勤める父親の仕事の関係で、あおいの家族はカナダに移り住むことになりました。小学五年生だったはずのあおいが、9月から新学期を迎えるカナダの学校では六年生(グレード6)になってしまうのは不思議ですが、それよりも言葉が通じないまま一人で学校でやっていけるのか、あおいはかなり不安に思っていました。担任のミス・マッケンジーに、アディソンという女の子を紹介されても、なんのことやらよくわからないまま。アディソンは親しくしてくれるものの、ともかく言葉がわからないし、意地悪なことを言う男の子もいて、それさえ何を言っているのか後からようやく意味がわかったりする始末です。それでも少しずつカナダの学校にあおいは慣れていくものの、自分の居場所がないような気分は続きます。カナダの学校では、自分で考えて発言することが求められます。日本の小学校にいた時、自分の空想癖を気持ち悪いと言われ、同級生から避けられていた、あおいは、カナダでは一層、引っ込み思案になってしまっていました。そんなあおいに、いつも楽しそうに何を考えているのかと尋ねてくれたのが、アディソンです。カナダにきてからは、「ふつう」にしていようと思っていたあおいは、自分の空想癖を誰にも知られたくありませんでした。しつこくアディソンに聞かれて、ついにはその心中を告白することになるのですが、驚いたことに、アディソンにとっては言葉のしゃべれないあおいは、そもそも普通の子じゃなかったのです。だとすれば、そんな空想癖など大したことじゃない。あおいが空想してお話を作り、アディソンがマンガを描く。そうして、二人は関係を深めていきます。やがてお話コンテストに二人の合作で応募することにもなり、あおいは少しずつ自分に自信を持てるようになっていきます。講談社児童文学新人賞佳作受賞作。新人の筆とは思えない落ち着いた展開と、文章にも安定感があり、じっくりと時間の推移を読ませ、テーマを考えさせられる作品です。アディソンとあおいが、なかなか友だちになれないのも良いところなのです。
カナダの学校の色々なイベントが興味深いです。スーパーヒーローデーにはスーパーヒーローの格好で走り(がん研究のための募金のイベント)、オレンジシャツデーはみんなでオレンジ色のシャツを着ます(これはファーストネーションと呼ばれている先住民を尊重するイベント)。学校にピンクのシャツを着ていったらゲイだといじめられた子がいたことをきっかけでできたがみんなでピンクのシャツをきていじめに反対するピンクシャツデー。他にもパジャマを着て学校に行くパジャマデーや、変な髪型をしてくるワッキーヘアーデーなど、盛りだくさんです。いずれも変わったことをみんなでやることで、弱者やマイノリティを擁護しようという姿勢が伺えます。学校や社会が、積極的に変わったことをやろうとしている。ここではこれが普通なのです。いえ、普通ではないことで、生きづらい思いをしている人たちのために、社会を拓こうとしている途上なのも知れません。実際はどうであるのか、はともかく、能動的に世の中を変えていこうとする姿勢がここにあります。あおいもまたこの社会とここにいる人たちの考え方に感化され、普通ではない自分に閉じこもる気持ちから解放されていきます。ゲイカップに抵抗を感じている人はまだまだ多く、当事者たちが生きづらい思いをしていることはあるでしょう。この物語も「普通」という概念が前提にあるからこそ、展開できるのかも知れません。すべてが解放された時、物語のテーマ自体が消失するはずですが、当面そんなことはないので、残念ながら安心です。いや、どうあるべきか。カナダの姿勢に対して、日本の閉鎖性が際立つ物語で、あまり日本の良さが再発見されることがなかったり、物の見方がやや一面的なきらいもある、というのは皮肉なところなのですが、現在進行形でこの世界を良くしようという思いには共感できます。