いのちのパレード

出 版 社: 講談社

著     者: 八束澄子

発 行 年: 2015年04月


いのちのパレード  紹介と感想 >
この物語では「生まれる前に死んでしまった赤ちゃんの命に意味はあるのか」という非常に重い命題を序盤からつきつけられます。その答えを模索しながら読み進めて、やがて物語の終わりの「いのちのパレード」で、条理を越えたところにあるフィナーレを迎えることになります。この跳躍が、自分にとっては非常に心地良かったのですが、理詰めでの正解とはやや違う結末なので、納得できない人もいるかも知れません。とはいえ、より根源的なものにアプローチしようとする試みであり、それをまた中学生の視線の先に結ぶというあたりに、この作品の凄さを感じています。たとえば、「死んだ子の年を数える」という諺は、無駄なことの例えですが、実際に子どもを失った親の気持ちとしては、そう簡単に割り切れるものではないと思います。死んだ子もまた生きている。それは随分と思い切った言い方ですが、その子によって残された思いを大切にしながら、人生を歩んでいく人がいることで、その子の命を生かすことができる、のかも知れません。それは、堪えきれない悲しみに耐えるための方便かも知れないけれど、祈りであり、願いであり、希望です。唯物論的な視座とは別の次元にある回答を、必死に手繰り寄せようとするのが人間であり、その心の営み自体が愛おしいのだと思わされる物語です。大人も中学生も答えを模索しています。そして、ただ運命を受け入れるだけではなく、もっと大きな命の連環の中に自分たちの存在を見いだそうとする大いなる試みがここにはあります。それを首肯できるのは、この物語の中で、ささやかだけれど大切な慈しみがたくさん積み上げられているからでしょう。是非、心を澄まして読んで欲しい物語です。

中学三年生の万里は、親友のセナの、妊娠したという突然の告白に戸惑います。バレー部の仲間たちは中絶費用を捻出しようとカンパを募り始めますが、万里の心中は複雑で、それに協力する気にはなれません。万里には、母親が妊娠中に胎盤早期剥離で生まれてこられなかった姉の千里がいました。万里の家ではずっと千里を弔い続け、万里もまた千里の存在を心の中に感じています。万里の母親の和美は産科の看護士であり、多くの子どもたちの誕生と、時に起きてしまう不幸な死に立ちあってきました。とはいえ、自分の身の起きた不幸について達観できるわけではなく、失った子どもの年齢を数えることもあります。愛しすぎると消えてしまう、という怖れから、万里のことをあまり気にかけないようにしてきたほど、その心に痛手は残されていました。そんな和美も、万里のおかしな様子には気づきます。万里は薄情者と思われ学校での居場所を失ったことよりも、親友のセナの大変な時間に寄り添っていられなかったことに胸を痛めていました。同級生の勇馬もまた、万里のことを気にかけています。妊娠中だった勇馬の姉にも不幸があり、やるせない思いを抱いていた勇馬。万里と勇馬にはどこか不思議な繋がりがあって、修学旅行先の班での自由行動で二人だけになった時、かすかに心を交わすことができます。それはほんのささやかなことなのだけれど、その場面の会話は、とても胸に沁みます。人間は傷つきながら生きているし、生命の儚さの前には茫然とせざるを得ないのですが、それでも命を愛しむ気持ちを中学生たちが抱き、正解のない答えを模索する姿には響くものがあります。悲しみを越えて前を向いていく彼らにこそ、未来が託されているのだと、生きていくことへの励ましがある物語だと思います。

市販されていない小さなベビー服が生まれて間もなく死んでしまった子どもたちのために病院で用意されています。月に満たず生まれた子どもたちの身体は小さくて、既製品ではサイズが合いません。だからボランティアの人たちが手作りでひとつひとつ作っているのだといいます。万里も職業体験で病院で働いた際に、このベビー服作りに参加しました。そのベビー服を、勇馬の姉の赤ちゃんが着ることになります。本来、ベビー服は生きている子どもたちのためにあるものです。死んでしまう子どものために、あらかじめ備えることについて、その心の強さを思います。生き続ける命も、失われた命も同じように貴い、というのは、美しすぎる言葉です。決して大きくなることのない子どものための服を作ることの、その慈しみ深さと、覚悟について考えています。自分も小さく、狭く閉じてしまいがちな心を奮い立たせ、さあ頑張らねばと思いますが、ちょっと挫けそうにもなりますね。どうせ人生は虚しいだけのものだし、なんて、いつもこうした文章を通勤の電車の中で書いているのですが、なんだか前向きなことが書けずに行き詰ってしまいました。ところが、帰り道に、ふいに高校生ぐらいの男の子の「♪母なる大地のふところに~我ら人の子の喜びはある~」という乱暴な歌声がどこかから聞こえてきて、なんだか可笑しくなってしまい、ああ、そうだったよね、と少し明るい気持ちになれました。なんの条理も、理屈もないけれど、そんなこともあるよなと思って、ささやかに救われました。この物語の描き出す境地も、どこか似たようなところがあります。いのちそのものに感謝し、宇宙と一体化する心の広がりを感じること。なかなか会得できる心境ではないのですが、目指したいものです。迷いながら、たどり着く場所は、まだ不安定だけれど、人と支えあい、少しでも前に進めたら良いなと、そう思います。