フレンド―空人の森へ

出 版 社: 教育画劇

著     者: 越水利江子

発 行 年: 1999年07月

フレンド―空人の森へ  紹介と感想>

いじめやヘイトが人を傷つけ、時には死に追い込むことがあります。加害者に対しては激しく憤ってしまうし、どうしてそんな非情なことができるのかと怒りを感じる人もいると思います。ただそれは被害者の痛みに共感できる、心ある人だけであって、本質的にそうした共感を持たない人には、何を言っても仕方がないのです。と、そんなふうに簡単に諦めてはいけないのですが、経験則として、そういう「心ない人」もいると思っています。そして、人を傷つける人には、意外にも「悪気がない」ことを知っています。深い慮りがあって人を批判しているわけではなく、衝動的に感情をぶつけているだけ。相手に生涯残るような傷を与えようとか、命を奪おうとか意図しているわけではなく、自分の中のフラストレーションを軽く発散しているだけ。なので、対処法は「深刻に受け止めない」ことなのですが、人間、そうタフにはなれないものです。「心ある人」は言葉を選び、相手の気持ちを考え、「心ない人」は、そんなことに思いも及ばない。悪意があるとも思っていないので、自分が言ったことを覚えてさえいない。驚くべきことに、デリケートなのに、他人にはデリカシーがないという人もいます。あらかじめ心がないのだから仕方がないのではないのかと思ってしまいがちです。さて、ここで思うのは、「心」とはなにかということです。この物語には、心がある人、ない人、などというような二元論を越えた真理が息づいています。心をそそぐことで変えられる、新しい世界と出会える一冊です。

三編のそれぞれ独立した物語には、共通して、空人(アキト)という人物が登場します。最初の物語では、空人は小学四年生の少年です。集団登校でのいじめをきっかけに学校に行けなくなった空人は、マーケットのうら口で、黒いコートのホームレスめいたおじいさんと出会います。おじいさんを追いかけて、ダンボールの箱をくぐり抜け別の世界に入ってしまった空人は、その似て異なる世界で、舞子という少女とそのおじいさんと知り合い、真実の多様性について示唆を与えられます。次の物語では、南帆という、やはりいじめられている女の子が、校門のむかいで星のかけらを売っている不思議な男に「ときのかわはら」という場所に誘われます。そこでマイコとアキトという子どもたちと出会った南帆は、どこでもなく、どこでもある場所で、悠久の時間を感じとり、自分がのぞむことで、本物とにせもの彼岸を越えられることを体感します。最後の物語は、小学生五年生の時、いじめていた空人に抵抗され、教室の窓から落ち意識不明になっていた青太が目覚める場面から始まります。六年の間も眠っていたと言われた青太は驚きながらも、その事実を受け止め、仕事で外国に行っている両親のかわりだと言う、見知らぬおじいさんと森で暮らすことになります。森の生活に飽きた青太は、街に遊びに出かけますが、そこで揉めごとを起こし、自分の本当の正体を知ることになります。さて、三編を読み終えた後、この物語が伝えるものとは何か考えさせられると思います。ここからが重要です。

難解で深遠な、真理を穿つ物語です。最初の二編はいじめられている子どもたちに、人の心の在り方について説いているようにも思えます。傷つけられる子どもたちを庇護するだけではなく、強い意志を涵養しようとする意図を感じます。心の真実に目覚めさせること。最後の物語の空人が、最初の物語の空人であるなら、この物語はひとつの円として結ばれる気がします。物語では語られない時間に空人が深めていっただろう慮りと、養われた強さを最後の物語に見ることになるのです。最後の物語のメッセージは力強いものです。心があるとはどういうことなのか。森や木や植物にも動物にも、そして人間にも、人は心をそそぐことができます。対象を思い遣ることで、そこに心が生まれていくのです。そこに心があるかどうかではなく、心をそそぐことで、心が存在するという、非常に形而上学的な命題であり、限りない優しさを持った真理、がこの物語に取り込まれています。自分が心ある人かどうかはともかく、人に心を与えるのは、人へのあたたかい眼差しであったり、思い遣る気持ちです。人は万物に命である心をそそぎぎ込むことができるのです。つい「心ない人」もいるのだと、諦めてしまいがちです。ただ心をそそぎこみ与える人がいれば、心ない人はいなくなるのかも知れない。そんな理想をも抱かされる尊い作品です。ふと、この作品の二十年後に書かれた、佐藤まどかさんの『つくられた心』を思います。アンドロイドが持つ心は真実のものなのか、という命題に考えさせられた物語です。しかし、心のない機械であるアンドロイドにも心をそそぎ込むことができるのだと、万物に心を見ることができるのだと、それこそが人間の在り方なのだと、二十年前のこの物語は、現代の作品を読み解くヒントを与えてくれていたのですよ。