どこまでも亀

TURTLES ALL THE WAY DOWN.

出 版 社: 岩波書店

著     者: ジョン・グリーン

翻 訳 者: 金原瑞人

発 行 年: 2019年04月

どこまでも亀  紹介と感想>

バイ菌が感染るから近寄るな、というのは小学生のいじめフレーズみたいですが、実際、人は接触することで大量のバクテリアを交換することになるので、警戒する人の気持ちもわからなくはないのです。汚れと穢れという次元の違うものがごちゃ混ぜだったり、「汚れちまった悲しみ」もあったりと一筋縄ではいかないのが思春期です。キレイ好きは良いものの、度を越した潔癖となると、まあ、精神を病んでいる状態だと言えます。常にアルコール消毒をしないではいられないような心理状態で生きることはハードなものです。台所用洗剤のCFで、まな板のバイ菌が可視化された映像が良く流れますが、世の中すべてのバイ菌を意識しはじめると身動きが取れなくなります。これをやり過ごす手段は「あまり意識しないこと」ですが、自分で自分をコントロールできないとなれば、精神科の治療が必要でしょう。この物語はいつもバクテリアに感染することを恐れている女子高生が主人公です。肉体的な接触だけでなく、精神的にも人との距離を置いて、触れないようにしている彼女の閉じた扉が、否応なく開かれてしまうのが青春の季節です。バイ菌を過剰に恐れ続ける強迫性障害は、そもそも何に起因しているのか。惑える彼女の情動を見守る一風変わった青春小説です。この感覚が身に覚えのある人にはわりと厳しい追体験になるかなとも思います。 

バクテリアを気にし続ける強迫性障害に苦しめられながらも平凡な女子高生生活を送っているアーザ。抗菌薬を使いつつ、抗菌薬が引き起こすことが多いクロストリジウム・ディフィシル腸炎に感染することも強く恐れていて、自分の情動がコントロールできずにカウンセリングにも通っている、病んだ子です。人と関わることも苦手ですが、唯一の親友であるデイジーとは馬が合い親しくしています。さて、デイジーからアーザは一攫千金のチャンスがあると持ちかけられます。アーザの幼なじみであるデイビィスの父親は有名な大企業の社長でしたが、収賄容疑で訴追された後、行方不明となり、高額な懸賞金がかけられていました。デイビィスに近づけば懸賞金をもらえるような情報が得られるのではないかというデイジーの案にしぶしぶ従って、永いこと疎遠だった彼と会うことになったアーザ。デイヴィスと親しくしていくうちに、次第に彼を好きになっていくアーザでしたが、人とキスをするとどれほどのバクテリアを交換することになるのかを想像して身動きがとれなくなる子なのです。アーザはデイビィスのSNSのアカウントを探し出し、彼が自分をどう語っているのかをそこで知り、ネット越しの距離感で気持ちを繋いでいきます。そんな折、デイジーが書いているスターウォーズのファンフィクション(二次創作)の中で、自分をモデルにしたイヤな女の子が登場していることをネット上で知り、ショックを受けます。ということで、自分という人間が人にどう思われているのか、改めて突きつけられ、自省せざるを得ない思春期の自分壊しがやってきます。人と触れ合えば無害ではいられないし、自分の毒素が人を汚すこともある。現代的な若者コミュニケーションと古典的な青春の葛藤が入り混じる坩堝がここにあります。 

タイトルの『どこまでも亀』は作中に登場するひとつの「世界観」を表しています。これは科学的なものとは真逆の考え方で、「宇宙は見えるところまでしかない」という断言と同じ類のものです。見えるものしか存在しない、となれば、細菌などないも同然です。とはいえ、実際にはあります。科学的に証明できないものを信じる気持ちも、科学的な証明結果に目をつぶる心性もあるのが人間で、この難しい匙加減を絶妙なバランスで当たり前のようにやってのけているのが「普通の人」です。アーザはこのレベルがこなせない病質の人で、さらには自分のことばかり気にして他人には関心がないし、他人への興味も「自分をどう思っているか」にしかないタイプのようです。これはファンフィクション(二次創作)を書くような、対象を愛しすぎて、いっそのこと自分自身を抹消したいオタク系の人とは真逆の心持ちです。この物語はそうした相反する心性を止揚する志向性があって、複雑な心理が描かれていきます。アーザのメンタルも人間としての青さも、これこそがティーンで、こうした感覚がつなぎとめられていることがこの物語の魅力ですが、ややしんどいですね。共感がある分、そう思います。ところで、火星にたった一人で取り残された宇宙飛行士がサバイバルを続ける『火星の人』という、映画化もされたS F作品がありました。生き延びるために火星で農作物を作ろうとする主人公の最初の課題は、火星の土が無菌状態であること。で、彼はどうやって細菌を増やしていったのかという興味深い展開のお話です。菌あってこその人類なのですよね。