彼岸花はきつねのかんざし

出 版 社: 学研プラス 

著     者: 朽木祥

発 行 年: 2008年01月

彼岸花はきつねのかんざし  紹介と感想>

日本児童文学の中の「きつね」を思い浮かべると、おおよそ「死」にたどり着いてしまいます。もうどうしたらいいのやらの『ごんぎつね』(新美南吉)や、さらにわからない『土神と狐』(宮澤賢治)では、紆余曲折の物語の末、きつねたちは脈略もなく問答無用に殺されてしまいます。この被害者たちのちょっと間抜けな感じさえする唐突な死に、童話を読む子どもとして何を思うべきだったかは今もって謎です。投げっぱなしにされた物語を、無理矢理、「教訓」に繋げないところに鑑賞の広がりはある、という良い例ではないのかと思います(本当かな)。後の時代に書かれたいくつかの「きつね」の童話も、お母さんが殺されていたり、子どもが死んでいたり、哀しみに溢れています。何故、きつねばかりがこんな目に遭うのか。とはいえ、きつねという存在に仮託された「人間的な悲しみ」が、あまりにも哀れを誘いすぎると、いささか興ざめな気もするのです。本来、きつねの持つ「何を考えているのかわからない」奔放なキャラクター性や、気まぐれぶりが、擬人化によって希薄になってしまう気がするのです。日本児童文学の中のきつね像は、ヨーロッパ的なそれのように、狡猾なワルというよりは、悪ノリと気ままさがあって、邪気もなく、運が悪けりゃ、ばったりと死んでしまったりする破天荒さが身上なのではないかと思っています。哀れむべき小さきモノたち、みたいなウェットさを持たずに、ギリギリのユーモアを仕掛けてくる命知らずの潔さが魅力です。この物語の「きつね」は、擬人化されたウェットな存在ではなく、「何を考えているのかわからない」挑発的なヤツです。『あたし、わりあい、上手に化かせるんだよ』と人間の女の子に挑む、この子ぎつねは、一体、どんな、きつね的衝動につき動かされているのか。「東京からきた転校生」のような、しゃきしゃきとした言葉で話しかけてくる、この子ぎつねの本意はどこにあるのか。この理解不能で手ごわそうな感じが良いのです。女の子と子ぎつねの、不思議な交流を軸に物語は進みます。野山で遊びまわり、牧歌的な喜びを満喫する、一人と一匹。それでもやはり、この、きつねの物語にも「死」が待っています。しかも、原子爆弾が落ちてくるという問答無用で、あまりにも圧倒的な死です。脈略のない理不尽さ。ここにあるのは、ウェットな哀しみではなく、ただの不条理です。あるいは、言語道断な絶望かも知れない。怒りや哀しみといった感情の底が抜けてしまった果てにある気持ち。南吉や賢治のきつねたちでさえも、何故、殺されなくてはならなかったのか納得できる理由はないと思います。ましてや、強力な爆発と放射能を浴びる理由なんて・・・。突然の嵐のように殺される、不条理な死をどう考えるべきか。この物語の余白には饒舌すぎるほど、たくさんのことが書かれているのですが、それは、突然、死んじゃうのは悲しいよね、ということでも、戦争反対や平和主義のお題目でもありません。多分、そうしたものを越えたところにある、哀しみとか、祈りとか、願いとか、言葉にならない何かなのです。そこに、「物語」によって、物語られる意味があるのです。静かな言葉で、ひそやかに、そしてユーモラスに物語は、綴られ、積み上げられていく物があt利。朽木祥さんの情景と心象をふうわりと優雅に重ね合わせる、詩のような表現は、相変わらず見事で、美しい。それゆえに、震撼させられてしまう、恐ろしい作品なのです。

戦時下の広島。也子(かのこ)も、春から小学四年生。れんげ畑で、子ぎつねを見つけたのは、この間のこと。まあるい目をしたふわふわのしっぽの、かわいい子ぎつね。おばあちゃんは、おきつねさまに化かされないように、ふらふら道草をくってはいけないよと言います。だけど、也子は、ついうっかり、入ってはいけないと言われた竹やぶにはいってしまうのです。そこで、出会ったのは、あのれんげ畑で見かけた子ぎつね。けれど、その子は、まだ、「おきつねさま」じゃないと言う。『あんた、あたしに化かされたい?』と聞かれたけれど、無論、也子は断ります。それから、ときどき、也子は、子ぎつねと出会うことになります。彼岸花のかんざしを飾った高島田のきつねの、はなよめさんの嫁入りを見たのは、あれは化かされていたからなのでしょうか。也子が過ごす、おばあちゃんや、お母さんとの日常の営みも、とても丁寧に描写されていて、戦時下ではあるのだけれど、その穏やかな毎日には愛おしさを感じます。野山のある自然の中で過ごす、也子の日々。そして、子ぎつねとの交流。でも、あの夏の日、突然、爆弾が落ちてきて、すべてを破壊してしまうのです。何故、化かされてあげなかったのだろう・・・。也子の胸に去来する思い。生意気な年下の女の子のように、挑んでくる子ぎつねの態度が、とても可愛らしく、素直に言うことを聞くような動物じゃないところも、とてもいい感じです。だからこそ、戦争のような人間の勝手な思惑が、すべてを塗りつぶしてしまういくことに、痛みを覚えてしまうのです。

化かすもの、というと、きつねだけではなく、たぬきのことも思い出されます。山中恒さんの『このつぎなあに』を小学生の頃、大好きで、何度も繰り返し読みました。出稼ぎに出た息子を待ちながら、一人さびしく山の中で暮らしているおじいさんのところに、たぬきが色々な怪物に化けて、訪ねてくる。その都度、おじいさんを怖がらせて、おむすびを要求するのですが、いつもシッポが出ていたりして、たぬきということはバレバレ。でも、おじいさんは、わざとだまされて、怖がったふりをする、というお話。この作品、最後が、もう泣けてしかたがないのです。たぬきがバカでねー。優しくて切ないお話です。童話に出てくる動物たちは、きっと「子ども」なのだ、と思います。人間(おとな)を化かした気でいるけれど、だいたい見透かされているのです。たぬきは、ちょっとトロい子。きつねは、さかしくて小生意気な子、というところでしょうか。大人の理屈でモノを考えない「子ども」たち。でも、児童文学の中で会いたい子ども、というものは、大人にとって「都合の良い子」じゃなくて、そんな手放しな子どもたちではないのか。あまりコントロール不能すぎるのも困るけれど、動物(こども)を、物語の中で擬人化(おとな化)しすぎない「間合い」は、パスタを茹で過ぎない感覚かも知れません。人間(おとな)の感覚を仮託されすぎず、愛らしくも、品行方正にはなって欲しくないのが、子どもというものへの願いなのかも知れません。そう考えていくと、動物童話の動物は、もっと動物的で良いのではないかと。そして、突然の暴力で奪われてしまう、動物たちの命のか弱さを、思ってしまうのです。