大地のランナー

Blood runner.

出 版 社: 鈴木出版

著     者: ジェイムズ・リオーダン

翻 訳 者: 原田勝

発 行 年: 2012年07月

大地のランナー  紹介と感想>

僕が中高生の頃の世界地理の授業では、ベルリンの壁もまだ健在で、米国とソビエト連邦を中心とした東西対立が世界平和に大きく影を落としていました。今となっては、変化を続ける世界情勢の一過的な姿を学んでいたのだなと感慨深く思います。いや、当時はそんなことを考えてもみなかったか。教科書から見えていたものを真剣に捉えていなかった反省はあります。ステップ気候もボーキサイトも、なんだかわからないままに暗記していました。同じように、あの当時の南アフリカ共和国についても、人種隔離政策であるアパルトヘイトが施行されている国という特徴を知識として覚えていただけです。そこにある人の痛みにまで思いが及んでいたのか。ネルソン・マンデラ氏らの解放運動が実を結び、南アフリカでは、1994年に全人種参加の選挙が実現して、新政権が人種間の融和政策を取るようになりました。そこからすでに四半世紀が経過しています。学校図書館向けの本に関係する仕事をしているため良く見知っていますが、現在、世界の国々を知るための本が多数刊行されています。同一テーマなら新刊であるほど人気が高いのは、教育現場では常時、情報のアップデートが求められているからです。子どもたちには世界の現在の姿を最新の情報で知って欲しいものです。ただ、かつてその国に存在した痛みや、悲しみ、怒りについてもまた、知る意義があるはずです。物語では、過去の時間を主人公の視座からリアルタイムでたどることができます。そこには、現在の世界を作った人たちの苦闘の歴史と、その時、どんなふうに人々の心が震えたかを捉えることができます。人種差別に対する抵抗運動が圧倒的な火力によって鎮圧される非常に生々しい場面から始まるこの物語には、衝撃を受けます。物語の中の若者たちの、はやる気持ち。人間としての公平な権利を求める闘いは、世界のどこかで今も続いています。人はどんな思いを抱いて自分なりの闘いを続けていくのか。過酷な時代を経て、南アフリカ共和国の代表選手としてオリンピックでマラソンを走ることとなる主人公の心の軌跡を、リアルに感じとれる物語です。

南アフリカ共和国。1970年代。人種隔離政策であるアパルトヘイトによって、都市部のタウンシップに住む黒人は、その行動を制限され、パスと呼ばれる身分証明書を常時携帯することを義務付けられていました。このくびきを外すことを政府に求める運動は、多くの人々を集めるデモになり、政府の鎮圧の対象となっていきます。タウンシップは人種によって住む場所が分けられています。とくに貧しい黒人たちが暮らすスラムで育った少年、サムは、少なからず興奮しながらも、家族とともに半ば物見遊山でこのデモを見守っていました。ところが警官隊の警告はエスカレートして無差別な発砲事件を引き起こすこととなり、多くの市民が犠牲になります。まるで戦争映画かギャング映画のような銃撃による惨劇。デモに参加していたわけではないサムの家族もそこに巻き込まれます。両親と妹を失ったサムと兄たちは、タウンシップからも追われることになります。白人の役に立たない黒人は部族別の居住地に行けと、生まれ育った場所から放逐されてしまったのです。ヤギの牧畜や鉱山労働など、居住地の生活は都市部とは違ったものでしたが、サムはその成長とともに族長から走ることの才能を見出され、しだいに陸上の世界に夢中になっていきます。兄たちや友人が政府への抵抗運動に身を投じ、テロも辞さずにこの国を糾そうとするアクションを起こしていく一方で、サムは自分にできる闘いを考えていきます。暴力に訴えることなく、黒人が認められるにはどうしたらいいのか。サムはその足で走ることで、自分たちの存在を白人に、そして世界に認めさせていきます。白人しか代表選手になれなかった時代は終わり、南アフリカという祖国を背負ってサムはオリンピックの舞台にその大きな一歩を刻むのです。 

タウンシップでのあまりにも過酷な事件の後、サムたち兄弟が赴いた部族別の居住地であるパンツーホームランド。そこの族長であるサバタおじさんが兄弟をあたたかく迎え、歓待してくれたこと。そして、サムの走ることへの才能を見抜き、支援を惜しまなかったことに救われる気持ちがしました。この物語のそんな緩急が読む続ける勇気を与えてくれます。特に好きなのが、古代ギリシアのオリンピックのマラソンの話を、サバタおじさんが実況中継さながらにサムに語って聞かせ、サムが一喜一憂しながら、歓声をあげる場面です。なんとも真っ直ぐで素直なサムは、いつかオリンピックのマラソン競技に出場してみせると誓います。あの裸足のアベべの話を聞き、おれにだってできるはずと、走ることへの思いを募らせていくサムは、上手くいかないことがあっても、ひたすら努力を続けます。過激な反政府運動に傾いていった兄たちが迎えた不幸な結末。では一体、自分に何ができるのかと考えながら、走ることに全てを注いでいく一途な気持ちがグッときます。オリンピックにも出場した実在のマラソンランナー、ジョサイア・チュグワネをモデルにした物語です。明示されてはいないもののチュグワネが金メダルをとったアトランタオリンピックのマラソンレースが、この物語のクライマックスとなります。おそらく当時の自分は、南アフリカ共和国の黒人選手が初めて金メダルをとったという事実を、なんとなくニュースで見送っていたのではないのかと思うのです。この真っ直ぐに駆け抜けていく物語を読むと、自分が知りながらも、何も感じないでいた過去の時間に引き戻されます。いや、今、世界で起きていることに、どれほど心を寄せていけるかが問われているのかも知れません。未来のために。