ぼくの弱虫をなおすには

THE LIBERATION OF GABRIEL KING.

出 版 社: 徳間書店

著     者: K.L.ゴーイング

翻 訳 者: 久保陽子

発 行 年: 2021年07月

ぼくの弱虫をなおすには  紹介と感想>

「話せばわかる」とセットになっているのが「問答無用」です。話してわからないどころか、話をすることさえできずに惨殺された政治家の無念にも感じ入るところですが、そもそも主義主張の違う人間同士は、ちゃんと相手を尊重して話をすることができるのだろうかと考えます。米国では違う政党の支持者同士は話をするどころか、関わりを持たないとの話も聞きますし、胸襟をひらいて、闊達にオープンな議論を交わすなんて甘い理想論なのかも知れません。この対立にさらに差別や偏見が加わると、もはや相手に、話をする権利さえ認めないのだろうと思うのです。それでいて抑圧しているつもりはなく、逆に自分たちの方が抑圧されているのだと感じているとなれば、歩み寄ることはできないでしょう。どんな人ともわかりあおうという理想と、平等と公正さを求めるスピリットは相容れず、米国の社会派児童文学の正義は、物語におためごかしの結末を迎えさせないというのが常套です。和解できないまま戦い続けるしかないのか。その答えは、その時代の現実に照らして考えるしかないですね。本書もまた、主人公の少年に、この世の中の苦い真理を学ばせます。弱虫な小学四年生の少年が、自分の怖いものを克服していく物語は、勇気をもって、正面切って話し合えば、苦手な人とでもわかりあえる、という定説を覆します。このタイトルや装画の、ほのぼのとしたイメージに反して、次第に高まっていく緊迫感と問題意識には驚かされます。世の中にはわかりあえない人がいるし、その身勝手な主義主張とは戦わなくてはならないのです。これはかなりハードモードです。ただ、その戦いを支えてくれる人たちがいるし、そこには深い情愛と心の結びつきがあります。とても難しいバランスの物語ですが、周囲の人たちに支えられて少年が成長していく姿を頼もしく見守っていられる作品です。

1976年の夏。ジョージア州に暮らす白人少年ゲイブリエルの頭を悩ませているのは、四年生から五年生に進級することです。五年生になれば、今まで通っていた東校舎を離れて、西校舎に通うことになります。そこに待っているのは、一学年上のいじめっ子たちです。からだが大きくいじわるなデューク・エバンズと、その親友フランキー・カーメン。かつてゲイブリエルをいじめぬいてきた上級生たちとまた同じ校舎に通うことを想像すると暗澹たる気持ちになります。修了式の日、デュークとフランキーにひどい目に遭わされて、ゲイブリエルが修了式に出席できなかったことを知った親友のフリータは、その仕返しを決行します。アラバマ州から引っ越してきた女の子、フリータは行動的で、ひとりぼっちだったゲイブリエルと親しくなり、気の弱い彼をいつも励ましてきました。デュークをいきなり殴りつけて鼻血を出させたフリータには感心しませんが、そのフリータを修了式に来ていたデュークの父親は「ニガー」と黒人の蔑称で呼び、物議をかもします。黒人を差別する人間がいるのだということを、ゲイブリエルは自分の父親から教えられます。デュークにおびえずに立ち向かうことをゲイブリエルは父親から諭されますが、やはり気が進みません。フリータはゲイブリエルの弱虫を克服させようと、苦手なものリストを書かせて、ひとつひとつ正面突破させようとします。苦手なクモを飼わせて友だちにさせたり、やはりゲイブリエルが怖がっているフリータの無愛想な兄、テランスと話をさせようともします。この試みには多少の効用があり、ちょっと自信をつけてしまったゲイブリエルは、逆にフリータもデュークのお父さんと話をして仲良くなるべきだと提案します。きっとデュークのお父さんは、フリータのことをあんな呼び方をして悪いと思っているはずだとゲイブリエルは考えます。話してみれば悪い人ではないとわかるかもしれない。さて、このチャレンジはどんな結果をもたらしたか。話せばわかる、とは限らない現実を子どもたちが知り、大切なものを奪われないために戦うことを決意する、その予定調和を覆す展開に驚かされる物語です。

2005年にアメリカで出版された作品ですが、2021年に翻訳刊行されたことは、近年のBLMを題材にした物語との親和性をより感じさせられます。むしろ今(この文章は2021年に書いています)読むことで、『アラバマ物語』から続く正義と公正を求める戦いの物語の系譜を意識するのです。建国200年を迎えた1976年のアメリカを描く物語は、当時の社会情勢を写し出します。根深い差別意識とそこに拍車をかける経済格差など時代背景の中での庶民感情も興味深い点です。フリータの父親は牧師であり、公民権運動にも深く関わっていました。南部アラバマ州で生活していたものの、過激な黒人差別を行う結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)に脅され、その脅威から逃れるため、家族とともにジョージア州に移り住んだという経緯をゲイブリエルは知り驚きます。父親から、大統領候補であるジミー・カーターが周囲から孤立しても人種差別に反対する姿勢を貫いたという話を聞かされていたゲイブリエルは、自分もまた信念を持って戦うことを意識し始めます。大切なものを奪われないために立ち向かうこと。ジミー・カーターを支援する集会で説教するフリータの父親は、人種差別に対抗するメッセージを発信しようと計画し、ゲイブリエルの父親も協力することになります。KKKの脅威はここにも迫っており、戦う意志をゲイブリエルもまた固めていきます。しかしながら、KKKに対抗するというのは「弱虫を克服する」レベルの話ではありません。それでも、愛してくれる人がいれば何もこわくないのだという励ましと、本当の「弱虫」は誰かというメッセージの熱さには感じ入るところです。さまざまな誤解が氷解して、皆んな仲良くなりました、めでたしめでたしを迎えられない苦さを感じながらも、物語は理想の未来にバトンを渡していくのだろうと思うのです。