にいちゃん根性

出 版 社: 太平出版社

著     者: 佐野美津男

発 行 年: 1968年


にいちゃん根性  紹介と感想 >
にいちゃんの大胆不敵な計画。兄、泰明が弟の宏幸にそっと打ち明けたのは、家出して北海道の牧場に行くという無謀な計画でした。別に家に不満があるわけじゃない。理由なんてなくても、家出しなければならない。中学生男子とはそういうものだ(そうなのか?)。家出して、大冒険をやってみようじゃないかという軽いノリなのに、決意は固い。まず、家出の前に準備しなければならないのは、北海道の牧場の柵に腰かけ、かき鳴らすためのギターです。何故、ギターが必要なのかと言えば、口笛じゃ様にならないからです。泰明の家出計画はそんなたわいもないロマンに裏打ちされています。衣類をボストンバックに詰め込んでリハーサルしてみたり、八百屋のお兄さんにギターを借りて、資金調達のために繁華街で歌を唄って稼いでみたり。どこまで本気なのかという感じです。そんな家出準備中、うっかり自分の恥ずかしいところを、隣家の下級生、あき子に見られてしまったと思い込んだ泰明は、今度は、唐突に死ぬ決意をします。そして、どうせ死ぬなら、北海道の原生林の中で死のうと、上野から無賃乗車で電車に飛び乗り、北へと向かうのです。こうして、泰明の家出の旅がうやむやのうちにスタートするわけですが、読者としては、中学生男子の過剰な自意識が爆発したあまりの展開についていくのがやっとという感じです。不条理な世界を得意とする佐野美津男さんの独自の世界観とユーモアに脱帽させられる作品です。

泰明が北海道に向かう電車の中で知り合ったのは、佐山余津男という男性でした。彼は無賃乗車の泰明を助けた上に、弁当も食べさせてくれました。学童疎開の話を語る佐山氏に、泰明はなぜ、大人は戦時中のことをそんなに楽しそうに語るのかと聞きます。泰明の両親も、疎開や動員のことを楽しそうに語っていたことが気になっていたからです。それは、その時間に人が、しんけんに生きていたからだと、佐山氏は答えます。戦争はよくないが、しんけんに生きることはすばらしいという佐山氏の言葉に、泰明も自分が家出をしようとしていたのは、けんめいに生きようとしていたからだったのだと納得します。単純な泰明はすぐに死ぬことを思いとどまりますが、そのまま津軽海峡を渡り、函館、札幌へと向い、クラーク博士の像の前で佇むことになります。一方、泰明の家出を知った家族は対策会議を行っていました。そこに参加していたのが、隣家に住む少女、あき子。彼女は泰明の行動力に胸を熱くして、その行方を探そうと思いたちます。こうして、あき子も単身、飛行機に乗り北海道を目指します。泰明とあき子のそれぞれのバカバカしくもユーモラスな妄想が交錯して、物語を盛りたてていきます。無事、北海道で出会うことのできた二人でしたが、果たして、この家出の旅はどのような終りを迎えたらいいのか悩むことになります。いやもう、やってしまったことはもう変わらないのだから、あとはプラスの方向へ持っていくしかない。物語の冒頭から、「プラスの方向へ!」のシュプレヒコールが鳴り響く中、泰明とあき子が東京へと凱旋する盛大なラストシーンまで、ずっと疑問符が頭に浮かびっぱなしの腑に落ちない物語。とても不思議な読書体験を得られること間違いなしの怪作です。

この作品は「母と子の図書室」という選書の一冊です。その選書名にとてもふさわしいとは思えない内容ですが、作者あとがきでは、読書が「家出を思考的に体験する」ことの意味を教育的な観点から訴えかけています。『巣立ちへの欲求が盛んな鳥ほど強い翼をもちうる』と、子どもたちの自立心を涵養して、個性的で他人をあてにすることのない社会人としての完成を目指すべきだと言うのです。寺山修司の『家出のすすめ』などとの同時代性を考えると、時代は若者により冒険心を求めていたのかも知れません。戦争を子ども時代に経験したこの頃の大人世代は、終戦から20年を経て、子どもたちに対して、どんなメッセージを伝えたかったのか。とはいえ、一般論や時代論に還元できないのは、佐野美津男さんという作家の強すぎる個性のせいです。児童文学史上に残る賞を受賞されているわけではありませんが、「記録」に残らなくても、読者の「記憶」に残された作品が多数あります。トラウマ児童文学の代表格として名高く、読者の声から復刊された『ピカピカのぎろちょん』など、当時の子どもたちのハートに刻まれた疑問符は大人になっても健在であり、佐野美津男の名前を現代の児童文学ファンに伝えるものになった、ということもここに付記しておきます。