ひとりじゃないよ、ぼくがいる

OTHER BROTHER.

出 版 社: 福音館書店

著     者: サイモン・フレンチ

翻 訳 者: 野の水生

発 行 年: 2018年03月


ひとりじゃないよ、ぼくがいる  紹介と感想 >
みすぼらしい格好をして、男子なのに髪が長くて三つ編みにしている。そんなあからさまに変な子が転校してくれば、イジメの標的になってしまうのは、良くあることです。キーランにとってマズいのは、その子が自分のイトコだということ。クラスの人気者グループにとり入ろうとしているキーランとしては、当然、その子をからかい、バカにしなければなりません。その子の名前はボン。以前に一度、ボンが家に来た時に、大切にしていたフィギュアを盗られたことがあるキーランは、あらかじめ良い感情を抱いていません。シングルマザーでボンを育てているキーランの叔母は、ちょっとだらしなく、ちゃんと子どもを育てられる人ではないため、親族間でもボンに対して同情的なムードがあります。それもまたキーランにとっては腹が立つポイントです。それでもイトコはイトコであり、キーランにもまた、ボンのさびしい心のうちがわかってきてはいるのです。学校での顔と家の顔。子どももまた器用に社会的自分を使いわけているものですが、そこに綻びが生じることがあります。学校での立場よりも大切なものがある。「いじめる側」にいた少年の心の軌跡が、鮮やかに描かれる作品です。装画といい、同じくサイモン・フレンチの『そして、ぼく旅はつづく』を踏襲したイメージの本だったのですが、かなり感覚の違う物語で驚きました。これもまた素敵な作品であることは共通しています。

ジュリアという名の魅力的な少女が登場します。ボンと同じタイミングでやってきた、もう一人の転校生。その外見だけでなく、心意気も素敵な子なのです。どこか遠いよその国から旅をつづけてやってきた、そんなひとみをしたジュリアに、キーランは心惹かれます。求心力があって、女子たちの間でも人気のあるジュリア。彼女に近づきたいと思いながらも、果たせないでいるのは、勇気がないからだけではなく、ボンがいつも彼女のそばにいるからなのです。キーランは嫉妬を覚えます。そして、毅然として、正しい心根を持ったジュリアは、いじめられているボンを守ろうとしています。いじめる側であるキーランとしては、より複雑な心情を抱くことになります。イトコなのに、どうしてボンと一緒にいないのかと問いただされ、キーランは自分に向き合わなければならなくなります。何故、自分はいじめっ子である少年たちにへつらっているのか。キーラン自身もまた抱えている寂しさがあります。ジュリアもまた、ボンと同じように、家庭の事情を抱えています。まともな家に住んでおらず、学校にいかせたがらない母親といつも言い争っている。そして、もっと重い秘密が彼女にはあったのです。やがて、ボンやジュリアの痛みを知ったキーランの心に芽生えていくものがあります。キーランが自らに恥じない行動を起こしていく、そこまでのプロセスが読ませる作品です。長いトンネルをぬけたからこそ『ボン、もうだいじょうぶだから。ぼくがいる』という、邦題にもつながる台詞には、グッときてしまうのです。

学校という場所の難しさをいまさらながら思っています。この物語で印象に残ったのは、いじめっ子たちです。ジュリアからはダメクズと一刀両断されている連中ですが、キーランは彼らの別の顔も見ています。どの顔が真実で、どの顔がフェイクかわからない。ただ、クラスの中心に君臨して、他の子たちをからかい、支配する顔は、あまり素敵なものではないですね。ただ、キーランがいじめに加担していた心の事情があったように、彼らもまた仮面を被って行動しているのかも知れない。それは希望かも知れないし、逆に、学校での立場のためには、いくらでも意地悪になれる酷薄さは、恐怖すべきものかも知れません。いや、そっちの方がタチが悪い。キーランは、ボンやジュリアと心を通わせたことで、正義に立ち返ります。その生き方を選べたのは幸運です。一方で、いじめっ子たちも、彼らなりの信念があり、心の中で正当化がされているのだろうな、という予感もあります。そうでなければ、苛責で死んでしまうはずです。つまり、人をいじめながらでも、楽しく生きられるのも才能なのです。素敵な子どもたちの物語は、そんないびつな子どもたちを逆照射します。さらにこの物語には、こわれた大人たちが登場します。子どもたちを愛しているけれど、結果として、子どもを不幸にしている人たちです。正しさが輝いた物語だけに、その陰にあるものに惹かれました。イヤだし、見たくないものなんだけれど、その陰が描かれたことで、逆に光が見えたかという気もしています。